pleetm's blog

日々考えた事や読んだ本について書くブログです。自分の書いたことって相手にどう伝わるのか、興味があるので、お時間ある方はコメントしていただけると嬉しいです。このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。

第四間氷期 (新潮文庫)

 

 



よみました(二回目)。

二回目にもかかわらずほとんど話を忘れていて新鮮に読めました。

話の内容は

主人公が作った予言機械が
第四間氷期の到来を予言し
その未来に向けて
ある組織が動き出す…。


あとがきで作者が述べているとおり
問題を提示し終わっているので
途方もない所に投げ出されたようになってしまいます。

自分にはその問いさえもはっきりしないのですが
なにか
飲み込まれてしまうような感覚を味わいました。

「40歳の壁」をスルッと越える人生戦略

読みました。

内容は、自分で稼ぐためにどうするか、という本です。

自分で稼げる自分業を見つけるためのアプローチが紹介されていて、これまでの経験の棚卸しに役立ちます。

どこに雇ってもらうか、という観点ではなく、どうすれば自分に価値がつくか、を考えるフェーズに来ているのだと感じさせられました。

This book describes how you live with your own profession.

Profession, in this context, is not employment but earn on your own, which means that you find out your value in the market.

To explore your potential, stock taking approach is recommended, where you will be single out efforts and time you have spent a lot.  This practice acts as a catalist for looking at your differenciation from the objective point of view.

Reading this book gave me an impression that we live in the world where we need to identify your value and get it paid by others.

 

 

死者の奢り

読みました。

大江健三郎が持つ、死あるいは狂気との距離感はどこから来るのでしょう。この距離感の他人との違いが、ある種の気持ち悪さとページを捲らせる駆動力の両方になっているのではないかと思います。

どんなにも異常でも、やはりそれは自分と同じ人間なのだ、そうである以上、自分が忌み嫌うような、遠ざけたくなるような狂気が自分の中にもあるということを、逃げずに描こうとした作家なのかもしれません。

人はどこまででも醜くなれるし、そうはなるはずがないと思っている人間が、いざ、環境や社会がそれを正しい/許容する風潮になると、いとも簡単にその醜さを身にまとい、闊歩して醜さの権化となってしまう。人にはそういう弱さと怖さがあります。

だから、外の世界の評価軸で判断するのではなく(それも大事だが)、自分の内面、もっと言えば精神との折り合いのつき方に敏感になる、ということが必要なのでしょう。その感度を高めておくことは、とてもしんどいことで、疲れることで、時には仲間をいないという孤独にも感じます。だけれども、自らを不感的にすることにより、他者の基準にすり寄ることのリスクと愚かさは計り知れません。

自分の精神を第一に考えるということは、時として頑固に見える時があるかもしれません。だけど、その頑固は意固地ではありません。その頑固が真摯であれば、他者からなんと言われようとその頑固は尊重すべき頑固さなのだろう、とも思います。

 

ともあれ、このように読者の思考を飛躍させてくれる麻薬のような書物が大江健三郎の魅力なのかもしれません。

This is a book written by Oe Kenzaburo. While reading, I wonderd where his sense of distance from death and madness comese from.  The uncommon sense makes me feel weird and also play a role of a driving force as a page turner.

No matter how disgusting it would be, all the emotion has been embeded in human beings.  And you and I are also human, needless to say.  In this regard, we are the living thing that has the disgusting impulse, which can not be avoided.  We have no choice but to accept the fact that we have madness inside of us.

Moreover, the disgusting nature can be easily encouraged by the outside world and evaluation.  Once the outside environment admit it to be a correct behaviour, you can adopt it without thinking.  Rather you may prompt or enhance it.  Simply put, a human is easily affected by others.

This means that it is all the more important to have our own evaluation measure inside.  That can be called a value or a perspective.  And it is also essential that you keep yourself sensitive to how you have compromised the diffrence between the outside evaluation and yours.  Staying alert to your mind would be exhasting and also solitary. However, making yourself unconscious about your inside mind ends up putting a risk of losing humanity from you.

Thinking of your perspective with the first priority seems to be obstinate at times, but it should be understood correctly.  In other words, if you are persistent in your value with respect, it is not stubborn.  Unless it is stubborn, you should place a greater respect on your own thought than others.

 

アラスカ物語 新田次郎

読みました。

凄まじい人生の物語。

新田次郎の淡々とした、しかしどっしりとした筆致が主人公である安田恭輔(フランク安田)の送った人生の濃密さを際立たせているように思います。

現地の徹底した調査と、できるかぎり客観的に輪郭を描こうとする態度が読む人の感情を動かす新田次郎の文章は、フランク安田をできるだけ掘り下げたいという、正直な姿勢を感じます。

それは、新田次郎が気象学者であったこととも関係があるのかもしれません。

 

なぜ新田次郎はフランク安田に魅せられたのか。書きたい以上に書かねばならないと使命感を掻き立てられたのか。もしかしたら、新田次郎第二次世界大戦を通じて、日本人が犯したこと、受けた苦しみを経験し、本来の日本人とはなんなのか、日本人観ともいえるものを見出そうとしたのではないか、と感じます。

 

The story of Alaska is about a life of Frank Yasuda, who is a Japanese who built the bever village in Alaska and let it flourish.  His life was full of hardships, which captivates us.

The author is Jiro Nitta.  His writing looks so objective that he can try to outline Yasuda and his life as accurately as possible.  His honest approach seems to stem from his sincere attitude.

 

What urged Nitta to take a close look at his life?  He went through WWII, which provided him with overwhelming amount of predicament. The struggle with gettig through it could have made him interested in depicting Japanese and Japanese perspective.

仕事選びのアートとサイエンス

仕事は仕事、プライベートはプライベート。そのような考え方もあるかもしません。

この本は、仕事でも自分であるか?をちゃんと考えよう、という本です。

では仕事中、自分であるとはどういうことか。それは仕事をしている時に活力を感じるかどうか。

そして、それは内省して得るものではなく、「世界が自分に何を求めているか」という形で他者から与えられるものである。

では、それはどうすればいいのか。答えは偶然である。

しかし、近道というか王道はある。

それは偶然を起こすための思考様式や行動パターンを身につける。

それは日々の習慣であり、

長期的行動し短期的考える

ことである。

もっというと、地道に着実に続けられること。

それは、言い換えれば、ずっとやってしまうこと、何をしていると楽しいか。

 

In the workpalce, are you who you are?

This is something this book is asking you.

Ans somethig this book tries to convey is that if you continue to be yourself and keep trying to be yourself, it will bring about a good coincidence.

If you always do what you can't help doing, that might lead to your vocation.  To evaluate yourself, you can ask yourself if you feel vigorous when you work.

14歳の教室 どう読みどう生きるか 若松英輔

若松さんの言葉は、ひとの心にやさしくでも真ん中にとどくので、言葉の力を感じることができると思います。繰り返し、大事なことを語ってくれます。

易しい≠簡単

「本当のことは易しい」だけど簡単なわけじゃない。それは、自転車に乗れる体験のようなものかもしれません。それは「あたま」でわかったことではなく、「からだ」に入ってくる、という感覚です。

逆に、簡単に「わかった」という感覚にも警鐘を鳴らしています。

「考える」体感が身につくまで、「自分はわかっていない」という状態に身をおけるか。

この感覚はとても大切なことだと思います。ともすれば早くわかりたい、簡単にわかりたい、答えを知りたい、と思いがちです。しかし、「考える」という行為は、答えを探す行為ではない、むしろ、「わからない」を抱えることのできる体力のことを指しています。「わかった」と思った時こそ危うく、むしろわかっていないことの確かさに意識を向けることがとても大事になってきます。

それは、「分かる」という言葉に示されるように、昔は「分ける」ということが理解する、ということと関係しているのかもしれません。つまり、これ以上分けられないものを分けられない状態のまま抱える胆力とも言えるかもしれません。

それを若松さんは「叡智」という言葉で表しています。

分けられないことに気づくということは、言い換えれば、「あわい」を見つけることと同じです。

みえるものはみえないものに、
きこえるものはきこえないものに、
感じられるものは感じられないものに、
考えられるものは考えられないものにさわっている。

この「あわい」こそが確かであり、「あわい」に気づく力が考えること、と言えるのだと思います。

The truth is simple, but is not easy.  This is because they are similar, but diffrent in essential.  I think it is just like riding a bicycle.  It appeared to be easy, but it was hard inicially.  Once you leaned to do, it has been easy.  As described by this simple example, experiencing through your body plays a critical role on understanding something.  Such a knowledge learnd through body is not understood by mind, but embeded in your pysical memory.

This sense of understanding conveys important lessons.  These days people tend to want to know anything more rapidly and with less struggle.  However, the practice of thinking does not involve serching for answer, but embracing what remains unknown.  In other words, easy understanding is dangerous, and a sense of not being able to understand let you find it credible.

Understanding has been considered distinguishing.  Therefore, distinguishing is the first step for understanding, but at the same time, the attribute of not being distiguished should be place emphasize on.  This needs attitude to carry what you don't undersand with you.  The longer you carry it with you, the more intelligent you will become.  Intelligence comes from 'inter' and 'gente(=person)'.  This provide you with a wisdom.  We should stay attentive to between something.  The sense of 'inter' can be an art of thinking.

 

自分ごとの政治学

政治とは何でしょうか。

これって政治的だよね、というと自分の意思の届かないところで起きていることだからやいやい言ってもしょうがない、という意味で使われることが多いのではないでしょうか。それほどに、政治とは知らぬ間に自分たちから遠く離れてしまったもののように思います。

 

しかし、本書の冒頭で、政治とは以下のようなものである。と著者の中島さんは言います。

「簡単には分かり合えない多様な他者とともに、何とか社会を続けていく方法の模索」

 

人間がそういうやっかいな存在だということを前提に、分かり合えない他者と対話し、互いの意見を認め合いながら合意形成をしていく。あるいは、共存するためのルールを定めていく。それによって、一人ひとりの幸福を追求するための土台を作っていく作業を「政治」と呼ぶ。

 

つまり、政治とは、わからないからお任せする作業なのではなく、わからないことから始める作業のことを政治と呼ぶのだと思います。そのように考えると、政治とは、わたしたちの生活のどこにでもあまねく存在していて、広く考えられている「政治」よりももっともっと身近なものである、ということがわかると思います。

政治の本ですから、保守とリベラルについて、等勉強になるところもたくさんありますが、特に印象に残ったのは立憲主義についての説明でした。

立憲主義とは、一般的には「憲法は国民が政府を縛るものである」という考え方だそうです。それは、言い換えると、立憲とは、いくら過半数の人が「こうしましょう」といってもやってはいけないことがある、憲法による制約がある。

ということと解されます。

では、そのノーというのは誰なのか。

中島さんは、

それは過去を生きた人、つまり「死者たち」である、といいます。憲法というのは、過去の人が積み重ねた失敗の末に、経験値によって構成した「こういうことはやってはいけない」というルールです。

 

現代はなぜ憲法が揺らいでいるのか。それは、

経験値、慣習や伝統を平気で無視する政治家が出てきた。それによって憲法の安定性が損なわれている。

こう言ったことは、憲法に限らないかもしれません。今まで、なぜそのようにやってきたのか、時代に合わずに変えるべきところは変える必要があるかもしれませんが、会社でも、家庭でも「運用」という経験値でうまく繋いできた、というのがこれまでの世の中だったように思います。その知恵は全てが言語化されているわけではないため、明文化したルールになっていないことも多いです。むしろ、書かないことにより適切なバランスが保たれていたという部分もあるかもしれません。つまり、書いてしまうことによって、書いてないことはしなくていい、とかダメと書かれていないからしても問題ない、とかいうふうに解釈する風潮が出てきました。最低限のダメ、がなぜそう書かれているのかを理解せずに、文字通りにしか解さない、むしろそれを尊ぶ風潮さえある気がします。

それは、

死者の存在を無視して、生きている人間だけで物事を決定しようとする。それは生者の奢りに過ぎません。

死者が残してくれた世界を私たちが生きている、ということは、自分たちが未来の生者に対して世の中を引き継ぐことでもあります。私たちは、昔の人が手渡してくれた世の中を将来の人により良い形で託していく必要があるのだと思います。今が良ければいいではなく、今をよく生きる、ということが大事なのだと考えさせられます。

 

What is polictics?

When you say 'this is politics', it often means that the matter is far away from your reach, and it therefore can not be changed by us.

However, this book tries to make politics get close to us by saying,

'polictics is a process of rule and consensus making for coexistence on the premise that we are all different and can not understand each other.'

Simply put, politics is not a practice of letting thing go without interferring because of disagreemet, but get started based on disagreement.  This thought gives us a sense that politics is much nearer neighbor to us.

One of the most impressive points of the book was about constitutionalism. Constitutionalism is basically something that have a principle of no change even if more than half people agree to change.  

Who says no about the change ? The dead, in other words, accumulation of people who lived in the past.  This is because constitutionalism involeve a rule that was defined based on knowledge and experience of people in the past about what should not be done regardless of the number of agree or disagree.

These days, this constitutionalisum is under pressure because of the advent of politicians that easily neglect wisdom, custom and tradition.  I wouldn't say we have to maintain a rule forever, but I think it is significantly important to understand the context in which the rule or princilple has been admired and respected until now.

We live in the world people in the past left. This means we are in the position where we take it over to the next generation. Therefore we need to think of how we can pass the our world to the next generation in a better way.  For the sake of this, we need to live 'well'.

 

しあわせの哲学

NHK学びの基本シリーズは30〜1時間ほどあれば読めてしまいますので気軽に学べてとても親切ですね。

幸せである、幸せになる、ということは、個別化が進行し、コミュニティによる承認が減退した現代社会では、孤独と結びつきたいへん難しい問題になっています。

昔であれば、「幸せにならなければ」などと考えることすらなく、それ自体が、今から振り返ってみると、すでに「幸せであった」と言えるのかもしれません。しかし、「幸せとは何か」という問い自体が言語化されてしまった今、それを考えずに過ごすということは不可能になっています。問いというのは、認識された時がその問題が生じた時だというのはよくいったもので、この「幸せ」というのもその一種であるように思われます。

幸せをいくつかのキーワードから読み解いていくと、その一つは、「自己了解を通じた物語の再構築」である、と言えそうです。自己了解というのは自分にとって大事なもの、どうしたいか/それは自分が選択し、自発的にエネルギーを出しているものか。ということだそうです。
この自己了解、つまり自分の大事なものにエネルギーを注ぐにはどうすれば良いのか。筆者は、「誰もが認めるであろう価値あること=事そのもの」を実現しようと目指す時に生まれる行動の柱、自分の軸が生まれる。と書いています。これを「自由」とも表現しています。そして、事そのものを目指すことができていると他者がすぐに認めてくれなくとも他者からの承認を期待しながらしぶとく頑張ることができる、というのです。
つまり、目指すものに社会的な意義を自分なりに感じることができるものであったり、目指すこと自体が楽しい場合に、短期的な承認に振り回されることなく、ある種「道」のように目指すプロセス自体を喜びと感じることができる、ということなのかと思います。とても難しいことだとは思いますが、世の中のために大事だ、という世界に対する何らかの貢献感をもたらす時(達成感ではない)、ある種の充足感を感じられるのかもしれません。

また、それが見つからないことで、自己を否定する必要もありません。それは、自分は自分の人生を肯定できる、と筆者は訴えます。自分の人生の中で、至福のひとときを経験したことが一度でもあるなら、あなたの人生はそれでもって肯定できるのではないか。というメッセージです。

これは、心が弱っている時にとても支えになる言葉であるように思います。ただ、一方で、至福のひととき、というような仰々しくいえるような幸せの瞬間などないよ、とも思いながら読む自分も同時にいます。

けれども、その後にはこう続きます。至福のひとときが一度でもあったなら、あなたの人生はそれでもって肯定できるのではないか。そうすれば、少しでも喜ばしいことを汲み取って生きることを心がけていこう。

やはり、そんなにすごい至福の瞬間があったと自信をもって言えるか、わかりません。わからないから幸せか悩むのだろうし、「至福だ!」などと自信をもって言える人は悩んでいないでしょう。だけど、至福かどうかは抜きにして、自分に少しでも喜んだ瞬間があったとしたら、それは、自分に幸せを感じるセンサーが備わっているということだと思います。だから、どんな小さなことでもいい、ちいさなちいさなものを集めていけば何とかなるのだ。もしかしたら、それはいつか自分の肯定へとつながるのかもしれない。その一つ一つが過去に対する見方をいつか変えるかもしれない、それが絶望し、これまでの自分の物語が瓦解し、どうしようもないと感じた場所からの、自己の物語の再構築である、とも言えるのではないでしょうか。

Being happy and becoming happy is becoming incresingly complex issue in modern society where individualization has been progressing, resulting in a sense of lonliness.

A few decades ago, happiness appears to have been less important issue because approval by community didin't generate solitude.   However, once the issue was verbalized, we have to confront with it inevitably.

Accorging to this book, one key word solving the issue is rebuilding your story through self accept.  To accept yourself, the book says that you realize what is important to your life and what you put your energy onto autonomously.

How can we do to pour your energy into what is important to you? In this book, it is explained that your core can be created when you are going towards something considerd to be valuable by everyone.  It also says that if you can aim at the point, you can continue to move yourself forward in case you are not valued by others instantly.

As to rebuiliding your story, it appears to be importat to be attentive to trivial happiness.  If you had a moment when you felt happy at all, it can be said that you have a good sensor for happiness.  You have a sensor and so you can search.  To continue searching will lead to self-esteem.  This can be a process of rebuilding your story.

 

 

 

 

人間

だいぶ前に読んだので、うろ覚えです。

「もう時間も経ってるし、平気なふりするのも上手くなったけど、それでもやっぱりあかんねん。あの時期に起こった出来事を自分の中で薄めるためにどうしたらいいんかなって考え続けてんけど、自分にとって特別な体験の数を重ねることで薄められるんじゃないかと、なんというか、そういう苦しみのコレクターみたいな」

思い出したくないようなこと、それが自分に起きたとしたら、それはどのように克服できるのでしょうか。あるいは克服ではなく共生するのが選ぶべき道でしょうか。思い出したくもない、心の奥に押し込めておきたい思い出ほど、そのように意識していることもあって、頭から離れることはありません。それは、「魔が差す」という言葉がピッタリであるかのように、いつでもどこでも隙を窺っていて、絶妙のタイミングで最も痛いところを突いてきます。

この引用のように、忘れようとするために、似た、あるいは全く別物の良いこと悪いことを集めて重ねて見えないように、薄まるようにしていきます。だけど、絶対にゼロにはならない。このゼロにならなさ、起きたことのどうしようもなさという現実はどうも変えようがなく、変えようとすると却って期待しない結果が吸い寄せられるようにやってくる。

なんどもなんども払いのけようとするけれど、そうするたびにやってくる。やってくるばかりか自分から同じ過ちを犯す方向にいってしまうこともある。同じではないが似た状況をクリアすることで、過去を上書きしたいと無意識に思っているからかもしれない。次こそ上書きに成功するのかもしれないという気持ちが似た状況を呼び寄せてしまうのかもしれない。でもそれは、次は当たるかもしれないと買いに並ぶ宝くじや、次には勝てるかもしれないとまたお金をかけてしまうギャンブルと同じような精神構造な気もする。だから、ひょっとしたら、逆転できるかもしれないけど、やっぱり薄めるためにコレクターになるっていうのは吉と出るのか凶と出るのかわからない。

僕は、何周自分の人生を生きたとしても、自分の根っこはやっぱり自分で、完全に書き換えることはできないのではないか、という気もしている。だから、もしかしたら上書きはできないのでは、と思っている部分がある。でも、同時に、その終わりのない収集癖が昂じて、そもそもの目的を忘れちゃってた、なんてこともあるかもしれない、とも思ったりする。だから、嫌なことを忘れてしまうくらいにその嫌なことを意識したいろんなことをやってみることが突破口になるかもしれない。もしかしたら、その過程が、最初意識にあった嫌な思い出を違う形で理解するための材料を提供してくれるかもしれない。それが、じつは乗り越えた、という瞬間とも言えるのではないだろうか。

だけど、やっぱりしんどかったことはしんどかったのだから、いつでもそんなふうに立ち向かわないといけないわけでもなくて、避けて、逃げるべき時もあるだろう、ともおもう。それも自分を労わる一つのやり方だと思うし、徹底的に逃げる、つまり徹底的に無関心になることで少しずつ薄めることができるような気もしている。

答えはわからないけれど、そういう苦しさを少なからず抱えている人もいるわけで、この言葉たちはそういう人たちに寄り添っているのだなと思いました。



「無理」の構造 この世の理不尽さを可視化する 細谷功

 

 

It is easy to believe in a RIGHT person.  Howeve, you have to be careful about SENSIBLE person.  He or she hears right, but it is dangerous.  

This is mainly because such a person tries to declare justice and equality, but actually they don't recognize themselves properly.  In fact, they think of themselves right and can't see themelves objectively.  Therefore, they tend to deny others according to their own moral, but it lacks objectivity.

This book tells us that this sort of selfish justice exacerbate our society and our company as well.  This degradation is irreversible and the irreversibility is the core issue of the culture.

In other words, if a person with low intellgence got a higher position in a company, employees in lower positions deteriorate their intelligence because this stream is irreversible so that it can't be reversed.  Therefore even if a person in the company tried to change the atmosphere, it would be impossible.  This is impossibility of a detrimental cultrue.

To get out of this spiral, the only wayout is to find a new stream that can reach the top.