pleetm's blog

日々考えた事や読んだ本について書くブログです。自分の書いたことって相手にどう伝わるのか、興味があるので、お時間ある方はコメントしていただけると嬉しいです。このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。

流れる星は生きている (中公文庫) 藤原 てい

 

 

This is a book recoding how people got back to Japan from Manshu(満州)when the World War II came to the end.  The author called Tei Fujiwara heard the rumor that the war would end and prepaared for her mother country.

The path was beyond our imagination and how it went was described in detail in her book.  While all people were desperate to get out of Manshu, all behaviors of every person was different.  There were people who think of themselves first than anybody else, who buried her child to death, tried to decieve someone else to gain money.  Despite the desperate situation, people were not gointg to help each other and were unsilling to believe in others.  This was surprising, but when people are under escessive stress, it also seems convincing that people think of their own safety at first.

Especially, what was impressive was the story about Higashida san, who has a son named Tamio.  She was always injuring her son and finally brought him to death due to malnutrition.  This was an disappointing incident and all other people discriminated her after his death.  However, she told that she was significantly struggled with loving him.  How much she tried to love him, she was unabale to do so, neither does his son.  His son also stared at her with hate.  Arguablly she was not her own son, but regardless of what the relation was, she attempted to love, but couldn't.  This was so sad and impressive that her strggling in the extreme situation stuck in my heart.

Ms. Tei Fujiwara was too tired and too distressd to be sane, but even in such a situation, she saved her 3 children and managed to bring them back to Japan.

One of them didn't want remember what was going on in the era.  It was too vivid for him to maintain the memory and he tries to avoid touching the sensitive emotion.

I can't say that I can sympathyze with them and understand their feeling because their experience was so unique and not so easy to take on.  However, it is significantly important to know what happend at that time, how people bahaved, how people survived and how  our modern society was built based on their desperate effort.  We need to and must know it even if you can do subtlely.



 

水中の哲学者たち 永井玲衣

永井さんの言葉は、何も特別でない。誰でもが理解しやすい平易な言葉で語られている。永井さんの言葉を読むと、平易に書くことと簡単であることは似て非なるものだということを痛感させられます。わかりやすく書かれているからこそ深く、そしてそこに本質のようなものが潜んでいる。そういう言葉を紡ぐことのできる稀有な方だという印象を持ちました。

おそらくその背景には、永井さんの物事や人に対する真っすぐな姿勢にあるのだと感じます。外から見ると不器用に見えるかもしれない、もっと上手くできると思われるかもしれない、けれどもそういう不恰好な向き合い方が、彼女に、血液が流れているような生きた言葉を紡がせているような気がします。

 

哲学というのは難しく聞こえます。

でも、問うこと、それが哲学なのだと永井さんは伝えています。

そして、しょうがない、だとか、そういうものだ、とかいう言葉にも警鐘を鳴らしています。こうやって自分に納得感のないまま受け流していくようなやり方は、思考を停止させます。そして、それがあたかも良いこと、大人であることのように、思いやりなどの親切心の容姿を装って忍び寄ってきます。だから、ぼくたちは本当に優しい言葉なのか、そんな見た目をした狼なのかいつも敏感でいなければなりません。

 

しっかりすることが大人になることではありません。

理不尽なことを我慢できるのが大人ではありません。

 

むしろ、前提を溶かし、心細くなり、拠り所がなくなっていくこと、その寄る方のない絶望の中で問い続けることが成長することだったり、大人になる、ということのような気がします。ここからこそ、他者性が立ち上がるのだと思います。むしろ、それができない限り、他者を他者としてあつかい、自分を自分として扱うことはできないのではないか、という気がします。



偶然の散歩 森田真生

読みました。

森田さんの語り口が大好きです。

いかに早く多くの情報を取り入れるかが競争になる現代社会。しかし、森田さんの本を読んで、ふと気付かされることが多くあります。

人といるからゆっくり歩くことができる。

 

これは、森田さんがお子さんとの関わりから述べているのですが、例えそうでなくとも、他者を想像するだけでもすこしペースを落としてゆっくり歩くことができるのではないか。だからこそ気づくことがあるのではないか。

ぼくたちは、もっと道草をして、一人で行けるよりも遠くへ辿り着くために、みんなで生きているのだと思いました。

偶然の散歩

偶然の散歩

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地平線の相談

面白かったです。

歳が離れていても話が合う二人。

これからは、年齢や住む場所などがますます関係なくなり、個人同士が繋がり合う時代、ということを述べておられました。

これは、従来の年代のつながりがなくなったのではなく、つながりが変容するものである、ということなのだとおもいます。一方で、これまで見えやすかったつながりが見えにくくなっているのも事実。見える・見えないがつながりの優劣になるわけではありませんが、つながりによって伝えられてきたものが少なからずあるはずで、そういった定量化されていない価値みたいなものが今後どうなっていくのか、個人的には気になります。

 

大和路四季の花 入江泰吉

入江泰吉は何十年も奈良を取り続けた写真家です。

入江さんの奈良に関する記述は奥深く、美というのはパッと目に見えるものではないものであることをあらためて教えてくれます。見える人にこそ見えるもの。あるいは見ようとする意思のある者にふと立ち現れてくるもの、それが入江さんの美であるように感じます。

奈良は古い時代の都でありながら、京都のように当時の面影を残すものは多くない。むしろぱっと見は、どこの地方でも見られるような単なる農村風景だったりする。しかし、その背後には、初めて外来文化が土着の文化と出会い、衝突し、受け入れ、融合した残像のようなものを見ることができます。これを見るために、入江さんは「イメージ」が重要だと述べています。

そして、美しさが発露となって、人の心情に訴えかける。そこに生命を感じるとき、その生を美しいと感じる。

とも述べています。

そのさりげない景観に、風景の「風」の趣が醸し出されている。

それは風景の中に醸し出される余情、気配と言ってもいいと思う。

つまり、目に見えないもの、言うに言われぬ情感や心情を指すのではないか。

このような、ともすれば見過ごしそうな気配みたいなものをいつも感じられるアンテナを持っていたい、そして、そのアンテナから感じられるものは言葉には筆しがたいからこそ、入江さんの撮る写真には入江さんの感じる美しい風みたいなものが吹いているのかもしれません。

 

タタール人の砂漠

読みました。

タタール人というものがおり、それが攻めてくる。それを目撃する第一人者でいたい、という主人公。ついに、それを見ることはなく、異動させられ、死んでしまいます。それだけを生き甲斐にして生きた人生。

この本を読んで、この本全体が一種の人生そのもの、という感覚を持ちました。自分の目標や夢といったものを実現し、それが礼賛される中で、多くの人にとって、夢は夢のままで叶わない、というものであるように思います。そのような、絶望と隣り合わせの人生をどのように送るべきなのか、そのときわれわれはどうなってしまうのか。シミュレーションさせられているような感覚になります。

自分の行う行為の無意味さに、自分の願いの報われなさが人生に真実の一部であるとするなら、僕たちはそれをどのように受け入れ、乗り越え、あるいは対処するのでしょうか。

悲しみの秘義 若松英輔

読みました。

ぼくにとっては、とても大切な言葉がたくさん書かれている本でした。そのやさしく悲しい語り口がとても美しく、こういう感覚を言語化し共有できることに感銘をうけました。たぶん、それは、ひとつひとつの言葉をだいじに扱ってきた人だからこそできる、精神性の深さから生まれるのではないか、と感じます。

祈ることと願うこと。
願うことは自らがほっすることを何者かに訴えること。祈るとはむしろ、その何者かの声を聞くこと。

人生はひとにさまざまな問いを与えます。人生はひとにその問いに「応える≠答える」ことを求めます。つまり真摯な対応を求めている。

人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが胸にあることを感じているからだろう。

悲しい、というのは亡きもの、愛しきものがそばにいること。その悲しみを抱き続ける。悲しみは別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れをつげる出来事だと感じることはないだろうか。

言葉になれ、と願うだけでもかまわない。その思いは必ず、見えない言葉で刻まれた手紙になって天へと駆け上がる。

書く、とはそこに書きえないことを想い起こす営みだといってよく、語りえない人生の出来事の存在に気が付く。

心を開くとは。自らの非力を受け入れて露呈しつつ、しかし変貌を切望することではないだろうか。変貌の経験とは、自分を捨てることではない。自分でも気が付かなかった、未知なる可能性の開花を目撃することである。

言葉にできない、具現化できないからこそ、その欠乏を実感しながらもそこに向かい継続すること。その語りえなさによって、より強烈に「ある」ことを認識する。だから、喪失にこそ重要なシグナルを見出すことができるのかもしれません。

 

 

女二人のニューギニア 有吉 佐和子

読みました。

有吉佐和子さんの小説を読んだことのない人でも紀行ものとして純粋におもしろいです。有吉ファンであってもなくても楽しめます。

時は1969年。パプアニューギニアが独立国となる前の文字どおり未開の地。そういった場所での人々の生活や言葉など、それだけでも十分におもしろいが、それを面白く読ませるのが、二人の凸凹なキャラクター。長年ニューギニアで調査を行っている畑中さんの豪傑ぶりが、旅をどんどん前に進めてくれます。

そして、旅が終わったことを実感するのはすべてが終わった時、とそれくらいの無我夢中の大冒険を体験することができます。

 

 

伊藤比呂美の歎異抄

宗教、仏教、浄土真宗親鸞

特にぼくが何か信心深いわけではありません。とっつきにくいものかもしれませんが、宗教はこの世の中で無視することのできないものです。また、そこにはある真理が含まれていることも事実でしょう。

 

伊藤比呂美さんは「歎異抄」(親鸞の死後,信徒の間に種々の異説がおこったのに対して,正統な教義を示すことを目的として編集されたもの )をはじめ、親鸞に向き合います。

この本では伊藤さん自身の旅と親鸞の教えとが交互に綴られていて、仏教の教えが身体的な行為であることを教えてくれます。伊藤さんが現代日本語に翻訳した歎異抄が記載されていますが、それを読んだところでその教えがわかったとは言えるものではありません。ただ、本書を通じて、読者は伊藤さんと真理を求める道程を共に旅することができると言えるでしょう。そして、どのような教えも真理をもとめ考え続け、自分の言葉に移し替えるという作業そのものが必要不可欠なものであるということを教えてくれます。

それは、まさに歎異抄を編纂した唯円と同じ作業なのかもしれません。その教えを疑い、問い、自分なりに理解し、記す。普遍的でありながらも個人的な作業の蓄積が真理へ近づく方法なのだと感じさせてくれる本です。

 

I'm an atheist, but religion is something people cannot avoid. And it is true that religious doctrines contain some truth.

The author, Ms Ito, has been faced with Tannnisho, which was edited and described by an apperentice named Yuien being mentored by Shinran, the founder of Jodoshishu, one branch of Buddism.

This book depicts her trips and donctrines in parallel, which tells me that understanding religion is a physical act because reading the doctrine many times has deepened her interpretations on it. 

Furthermore, this made me learn that it is essential to seek for the truth and translate into your own words.  This process may have coincided with what Yuien did.  As he douted, asked, understood and described, we do the same. The series of work may be the way to get closer to the truth.

誰にも相談できません

読みました。

一問一答形式の高橋源一郎さんのお悩み相談です。

高橋さんの回答する時の姿勢は一貫していて、自分が同じ立場だったらどうするか。

そこから見えてくるのは、徹底して個人を尊重する、ということ。そして、自分もその苦しみを与えている立場になっていないか、という自己反省。

この向き合い方は簡単なようでいて難しいと思うのですが、高橋さんはそのやり方でここの相談に立ち向かっていきます。

この回答からぼくたちはいろんなことを学ぶことができると思います。

 

一つ、読んでいて、そのとおりだと思うけど、それだけでない世界もあるのではないか、というところがありました。それは、嘘をつくのは嘘の世界に住む方がらくだから。というもの。そういう自分を甘やかしてくれる人に付け込んでいるだけ、というアドバイス

だけど、人にはいろいろいて、いろいろな事情があって、大事な人だからこそ言っていない、と場合こともあるのではないか。それを打ち明けることで自分が拒まれるのではないか、という恐怖から高橋さんのいうぬるま湯へ逃げ込んでいることもあるように思うのです。

ぼくたちはそういう互いに言っていない秘密をも包み込みあう、そういう尊重しあう気持ちが、互いを結びつける、そういう関係もあるのではないか、と夢想してしまいます。

もちろんその秘密やコンプレックスみたいなものを打ち明けて共有して受け入れてもらう、あるいはそれを受け入れてくれない人には去ってもらう、という生き方は強いしかっこいいとおもいます。だけど、それだけが優しい関係構築のあり方ではないような気もします。関係性とはもっと何層にも重なり合っているもの、そう感じます。というのも、仮に全てを話したと当人が思っていたとしても、それが本当に全てであるということはあり得ないのですから、必ず共有されていない部分というのは残るのではないか、ぼくはそのように感じました。

 

また、高橋さんは情熱を持った若い頃の自分を生かし続けることの難しさと大事さにも触れています。そして、努力して報われなくてもやっぱりやりたいことを見つけることの重要さにも触れていました。

だいたいできそうなことを好きになる世の中で、できないからこそ好きでやめられないことを見つける重要さはこれからもますます高まると感じます。

 

 

This is a book of Questions & Answers about worries people are having.  Mr. Takahashi is replying to those questions.

His attitude when answering is always consistent, which is what would he do if he were in the other's shoes.  This posture is difficult to maintain, but he is trying to keep this way of answering.  I think we can learn a lot from his responses.

 

A single thind I was not quite convinced with was that telling a lie is that it is easier than telling the truth.  This is spoing yourself.

But, I suppose differently. Individuals are diverse and have a variety of situation.  There would be some people who feel afraid of not being accepted by the other they admire. This scare may keep them from saying the truth.  I imagin that it is a possible to have a relationship where we can respect each other including the fact that they are keeping some secret.  I expect there to be a multi-layer relationship because it is not possibe to share ALL the things even if they thought they shared all things.  Therefore,  understanding that we don't say all makes us kind and generous to others.

In additionm he touches upon the importance and difficulty of keep passionate and seeking for something that you want to do even if it is not successful as a result of dedicated effort.

These days, people tend to like something they can understand and do.  But what is more important is something you want to do all the more its difficulty.