pleetm's blog

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今に生きる親鸞

親鸞の有名な言葉に、 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものがあります。これを「悪人正機」といいますが、普通なら、 「悪人なほもて往生をとぐ、いはんや善人をや」 というところです。ところが親鸞は逆に、善人が往生をとげるのだから、悪人はなおさらだ、なぜなら自分を善だと思っている人間は、どこかに自力を頼みとするおごりの心をもっているが、自分を悪だと自覚している人間はひたすら阿弥陀仏を頼みとする謙虚さをもっているからだというのです。法然ならば患者に往生の正機があり、賢者には正機がないというところです。 これはとても大きな問題で、この理念がなければ、親鸞は思想家としては、他の同時代の僧侶とおなじで、別にどうということはないことになってしまいます。
念仏だけでいいという価値観をウソだという人はたくさんいるでしょう。他の宗派のお坊さんもそう言うでしょう。しかし、親鸞の考え方からいえば、とにかく自分は価値観としては最終的なところまで到達したという自負があったのだと思います。
菩提の心を起こし、念仏を称えようと心に思う内在性は、常識からは善なる行いだということになります。法然親鸞は、そういう心の状態を認めていないと思います。言葉で名号を称えればいいのだ。それで浄土へ往けるのだと言い切っています。 法然は「愚者になって往生する」という言い方をしますし、親鸞はおなじように言えば「悪になって往生できる」と言います。
浄土なんてあるのか、ほんとうにあるなどというのはつまらない考え方だ。浄土はあるとも言えるし、ないとも言えるぐらいなことを言うほうがよほどいいので、まだそっちのほうが正しい、というのが親鸞の考えです。
一般論でいえば、人を殺すのは、人間の倫理から言って絶対に悪いことになります。しかしもし、業緑、因縁があると、絶対に悪いことだって人間はしてしまう存在なんだと言っているわけです。例えば戦争になれば、百人、千人殺すこともあるかもしれません。 自分だけは別だなんて考えるのは大間違いだ。かといって、業縁がなければ一人だって殺せない。そして、その人間は、別の人間ではない。つまり同じだ。そこの問題が解けなければ、善と悪の問題も、第一義の問題としては解けませんよということを、親灣は徹底して言っているのです。 唯円が、「器でないから殺せない」と言っているところを、親糖は、「業縁がないから」という言い方に変えています。こういう言い方をすると、普通の善悪、倫理が、横の方に最大限に拡げられることがわかります。俗なことを言えば、親機はとても危ないことを言う人だと思います。 しかし、この「業縁」と親鸞が言っているものは何かと考えると、それはたぶん、親鸞が、人間と人間との関係の中で出てくる声、善悪の伝播的な機縁の中に、浄土を自然に含ませてしまったときに出てくる考えだと思います。
「確かに、ここに飢えて倒れている人に、お金をあげたり、食べ物をあげてもいいだろう。しかし、そうしたからといって、この人たちを助けおおせると思ったら大間違いだ。そういう人たちを助けるか助けないかということは、二番目に重要なことで、そんなことはどうでもいいことだ。そうしたからといって、全員を助けられるわけではないし、たまたま出会った人を助けるだけだ。
自然に自分の計らいですればよいのだと言っています。おのずからの計らいで、助けたいと思ったら助けなさい。そうでなければそれでもいいですよ。わざと痛めつけたりするのは、自分から計らうことだから、善いことをするのと同じように、そんなことは第一義の問題にはなりませんよ、と言っているのです。 自分が言っているのは、目の前で困っている人を助けても、最も大切な救済の問題にはならないというだけで、自分の心が、どうしても助けざるをえなかったら助けなさい。それが自然ということだ。だけど、そんなことが第一義だと思ってもらっては困るというだけだ。親鸞はこう言っているのです。 目の前の人を助けるかどうかというのは、相対的な善悪にすぎない。徹底している善悪とは、ひとたび浄土へ往って(この場合の浄土は本質的な浄土ですから、死んでしまったあの世ということではありません)生をも見通せる、死も見通せる場所から還ってくるということです。つまり、自分が還ってきてそこで出てくる慈悲を第一義の慈悲と考えなさい、と親鸞は言っているのです。
往生というのは、何事も凡夫の計らいではなく、弥陀仏の誓願にまかせたからこそ、他力なのでしょう。さまざまに計らいあっておられることは、おかしいことと思います。(『末燈鈔』七) 親鸞はこのように、実現すべきことを、「深く信ずること」「念仏すること」と、「みずからは計らわないという心の状態」つまり、「まかせるという心の状態」、ただこれだけだと、繰り返し言っています。しかし、このことは、弟子や同信の人たちに、一番理解されにくいことでした。
親鸞は、弟子の唯円から、 「わたしは念仏を称えても、一度も喜んであの世へ往きたいと思ったことがないのは、どうしてでしょうか」と、問われたとき、 「そんなことは当たり前のことだし、私もそうだ。ほんとは喜ぶべきことなのに喜ぶことができないのは、順悩があるからだ。だから、煩悩具足の凡夫である自分たちは、ますます阿弥陀称名念仏で救われるのかもしれない。人間は、死ぬ時期がきたときに、おのずから浄土へ往けばよいのだ」と、答えました。
人間は、善いことをしていると自分が思っているときは、悪いことをしていると思うぐらいがちょうどいいというふうになっています。逆に、ちょっと悪いことをしているんじゃないかと思っているときは、だいたい善いことをしていると思ったほうがいいのではないでしょうか。
今に生きる親鸞

今に生きる親鸞

 

親鸞はものすごく丁寧に説明をする人だったのだろうと思います。だからこそ、読む人にとってはわかりにくく、核心をとらえにくいと感じる人がいるかもしれません。しかし、すでに自分の心で知っているのではないか?それに素直に従えばいいのですよ、それは何も悪いことでもありませんよ、いいとも言わないですけど、だからそこまで気に病まんでもいいんですよ、と包んでくれる、その言葉に多くの人は救われる思いを持ったのではないでしょうか。

人間は、自分の思いとは反対のことをしでかすことがある、ということをどう考えるか。本当にその人の責任と言い切れるのか、どこまでを責任として問えるのか、と言うのは今の哲学でも大きな問題と捉えることができるでしょう。

そして、いいことをしていると思ってもちょっとは悪いことをしているかもしれない、とすこし自分の正義を弱めてあげると、いいことを行うことによる悪い影響にも目を配ることができるようになるかもしれません。そこまで考えた上で、やっぱり自分の素直な心に従ったのなら、後悔する結果と少しは向き合えるようになるのでしょうか。

pleetm.hatenablog.com

 

Shinran seems to have been a person who explained well about questions he was asked.  His detailed explanation was so logical that everyone who liestened might have gotten all the more confused.  This is because they could feel beating around the bush instead of getting into the core answer. 

However, I think he said the same thing over again while the way of expression varied.  The variation of answer stems from his witness, but it could have arouse susceptive feelings of people.  Having said that, his words were so simple that there seem to be as many people who was saved by him as ones confused.

In this sense, he is recognized as a religious person, but the more correct evaluation can be a philosopher.  For this reason, other religious persons used to accuse of him due to his extreme thoughts and ordinary people tend to considerd him to be a good practisioner of religion. 

I am intrigued by his ambivalent feature mentioned above.  The interest in more deepened understanding on his thought have captivate me.