pleetm's blog

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グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) スコット フィッツジェラルド

読みました。

初読の感想は、何が名作たる所以なのか正直わからないというなんともこころもとないもので、なかなか感想を言葉にすることができずにいました。ただ、読後もしばらく、何かを自分に向かって静かに主張し続けていて、それは、自分はちゃんと読めていないのではないか、もう一度読む必要があるのではないか、と言われているようで、再度読んでみました。

再読時は、訳者の村上春樹のあとがきをよみ、なぜそこまで貴重な作品として読み継がれているのか、村上春樹がこの小説の何を拠り所としてきたのか何度か読み返したのち、小説本体を再読することになりました。

まず、小説のタイトルに冠されているギャツビーが主人公であることは言うまでもないことなのですが、実際にはギャツビーの友人である「僕」が本書の主人公であり、僕を通してギャツビーという人間が描かれています。つまり、ギャツビー自身の内面がっ描写されることはなく、本当のところギャツビーがどう考えて何をしたのか、はわかりません。

ただし、「僕」の目を通したギャツビーは、ほかの誰にも見出すことができない真っ直ぐな人間であって、その尋常ではない研ぎ澄まされた感覚によってギャツビーは生に駆り立てられた人物であると述べています。つまり、小説の冒頭ですでにギャツビーについての種明かしがされており、残り全ての部分には、僕がギャツビーに対してなぜそのような思いを持つに至ったかが描かれるという構造になっています。

それほどまでに、ギャツビーを理解することは「僕」にしかできず、またそれだけの説明がいるということ、また、「僕」以外にギャツビーを正当に理解できた人物はいなかったのだ、ということが読み進めるにつれてわかります。「まっすぐな人間だった」という一言では説明しきれない、複雑かつ純粋な人間性はギャツビーの魅力であり、それは同時に、自身の愛が果たされることなく終わった際に、ギャツビー自身を死にいたらしめたものでもありました。

そして、その人となりは、ギャツビー自身には説明がつかないもので、「僕」ができる限りただしく描写することによって初めて、姿が立ち現れてくる種類のものでした。これを一般化することはおこがましい気もしますが、ほとんどの人間は他人から真には理解されることはないのだ、と感じると同時に、一人でも理解をしようとする人間がいたということがどれほどまでに幸福なことであるのか、と感じさせられました。

だから、この小説を読んで、多くの人がギャツビーに魅力を感じるか、と言われればそうではないと思います。むしろ、「僕」以外の全ての人のようにやはりギャツビーを理解しようという気すら起きないという人が大半だと思います。けれども、いくらかの読者には、ギャツビーの生の灯火が感じられれ、「僕」以外の理解者が生まれれれば、ギャツビーは永遠にその灯火を灯し続けるのだと思います。

 

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