pleetm's blog

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白い薔薇の淵まで

読みました。

感想を述べるには当てはまる言葉がないような、生死に関わるレベルでの感情の濃さを感じる小説でした。

小説家の塁と同性愛の恋に落ちた主人公。塁は複雑な家庭環境から、埋めることのできない寂しさを抱えている人間でした。それが主人公と出会うことで、深くお互いを求め合うようになります。お互いに、求めあえばあうほどお互いが嫌に、でも同時にいなくてはならない存在となっていき、何度別れようとしても、やっぱり戻ってしまう、そのような関係となってしまいます。

この小説を読んで、忘れようとしても忘れられない、逃れようとも逃れられない、ある種の業とも言えるような関係性の存在と、それを引き受けて生きるということが表現されていると感じました。誰にでもかけるものではない、実感を伴った描写には、苦しさと幸福が隣り合わせで同居し、しかもそれが故に痛いほどの力強さを感じ、読んでいても読み進めたくなくなるような感覚がありました。

 

そのような深いところから来る孤独感というものと、人はどのように付き合っていくべきなのでしょうか。その類の深いところに根ざしたと孤独感に対しては、表面的に、力任せに取り除こうとすると却って逆効果となり、孤独感を深める結果となる気がします。だから、その孤独感を忌み嫌い、安易に処置してしまうようなやり方は避けるべきなのでしょう。だからといって、人間誰しもがその孤独感を抱えたままで生活することも難しい。どこかで、溜まった膿のようなものを出してあげたり、ふとそれを忘れる瞬間をもったりすることが必要かもしれません。

僕には、その解決策はわかりません。ましてや、本質的にはそのやり方では解決できないということが頭では分かっていたとしても、ある瞬間、合わないはずのパズルのピースが合ってしまったかのように、やりたくないけれどもやってしまっている、という瞬間が人にはあるのだと思います。確かに自分がやったのだけれども、やらざるを得なかった、積極的にやろうと意思決定したわけではないことをしている瞬間というのが存在するのかもしれません。そういったものが、運命と言った言葉で表現されてきたのかもしれないな、と感じました。

読む人によって印象がガラリと変わる小説だと思います。感じることもそれぞれ違うと思います。ただ、確かに自分の選択なのだけれども、何かに選択させられているような、どうしようもないものがこの世にはあるのかもしれない、と感じます。

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