pleetm's blog

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色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年

自己の回復をテーマにした物語です。

そして、そのメッセージは、その傷の意味するところを、その理由を自身の手で明らかにすることによってしかなされ得ない。

ということのように思います。

 

しかし、そうであるならば、つくるが5人の完全無欠な集団から外れなければならなかった原因である、シロの内的な崩壊がもう少し緻密に描かれるべきではないか、と感じました。

ただ、他者を受け止めるにはこれ以上踏み込んではいけない、というボーダーラインがあるのかもしれませんが、つくるが自分の心の問題を本当の意味で乗り越えるために重要な部分ではないか、と感じました。

だから、僕としては、そこである種あっさりと納得感を得られてしまう点に違和感を覚えてしまいました。

 

というのも、本書で主人公つくるの人生をナビゲートする女性は、

傷は表面的に塞がっているように見えるだけかもしれない、つまり忘れることはできても消えはしない、ということ、

また、そういった問題はいったん言葉にするとたぶんあまりにも単純化されてしまうこと、

そして、それは筋道立てて論理的に解説することはできない、ことを理解しています。

そして、つくるに対して、傷の意味を自分で明らかにすることを促します。

 

そのような彼女に対して、つくるは

ある日突然、何の前置きもなくその相手がどこかに姿を消して、

一人であとの取り残されることを怯えるほどに

真剣に愛していることに気づきます。

 

ただ、この愛情が、傷の乗り越え方が浅いがために薄く感じられてしまうのです。

 

それさえも村上春樹の狙いなのかもしれませんが、どこか物足りなさを感じしてまったというのが正直なところです。

 

この小説はある種、村上春樹がわりに年をとった今、主人公を30歳半ばと設定することで、自身が小説家としてのキャリアを始めた時期を再体験することを望んだのかもしれません。

そして、主人公の人称を「僕」ではなく、三人称とすることで一定の距離をとることを意識したのかもしれません。