pleetm's blog

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陰翳礼讃

谷崎潤一郎の作品です。目に見えないもの、感触や湿度といったものを表現させて谷崎の右にでるものはいないのではないか、というほどのなんとも言えない質量をまとっていることが感じられると思います。

このねっとりとした、生々しさへの感性がこの本には凝縮されています。その感性は表題にもなっている陰翳礼讃に最も顕著なのですが、この中で谷崎は陰りの中にこそある美を発見します。それは欧米的な感覚にはないものであり、それが何に起因し、なぜ日本において進化したのかを追求します。

谷崎に言わせれば、それは皮膚の色であり、それと関係させて考察を深めます。東洋人も欧米と同様に皮膚の白さを重んじてきた部分がある。しかし、東洋人のそれはいくら白いといってもその中にどこか欧米とは違うくすみのようなものがある。東洋人はそれを受け入れざるを得なかった。一方で欧米人はそのくすみを異様なものとして忌み嫌ったのではないか。このどうしようもない現実こそが、東洋人が陰翳に美を求め、さらには置かれた境遇の中に満足し、現状に甘んじようとする傾向を育んできたのではないか。

欧米人は、その自身のかげりの無さ故に、進取的に明るさを求めてきた。だから蝋燭からランプに、ランプから電燈にとどんどん明るさを求め、影というものを消してきたのではないか、と考察します。

 

そして、その西洋の都合で発展した機械文化に対し、持ち前の迎合能力を発揮した現代日本では、さらに極端にこの傾向を促進してしまい、陰という陰を消し、いまや欧米とは比較にならないほどたくさんの電灯を、ネオンを照らし続ける国になってしまっている。日本では、照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのに、これまでの持っていた習慣や趣味生活の一切を捨て去り、順応のための改良の努力をすることなく、欧米文化を取り入れてしまった。と谷崎は愚痴をこぼします。

 

谷崎が大事にした、そして本当に我々が大事にしなければいけない感覚とは何か、というメッセージが込められていると思った部分があります。

私は、京都や奈良の寺院に行って昔風のうすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるたびにつくづく、日本建築のありがたさを感じる。日本の厠は実に精神が休まるようにできている。母屋から離れて青葉の匂や苔の匂が伝わっていくのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまってほんのり明るい障子の反射を受けながら、瞑想に耽り、または窓外の庭の景色を眺める気持ちは何とも云えない。

こんなに何とも云えなさを端的に伝えきり、的確に表現しきった文章は他に知りません。大事なのは、この湿度を含んだ匂いを感じる身体性なのではないか。これを保持することを最優先事項にして輸入する文化を再構築すべきだったのではないか、と考えさせられます。

 

この身体性の喪失は現代の、全体主義という無思考に起因した暴力を生み出しているし、さらにはそれに甘んじようとする古来からの悪癖のようなものが相まってそれを加速させている、という構図なのではないか、と感じます。

 

この状況を打破するものはおそらく物語性であろう、ということにも気が付きます。僕たちは、さまざまな身の回りのことを解釈する時の物語(ナラティブ)を喪失してしまっているような気がするのです。それは、物事を容易に白と黒に分けてしまう思考、白でもあり黒でもありえるという物語がなければ、立体的に、解像度を高く理解することができなくなってきているのではないか、と危惧します。

 

谷崎は、以下のように締めくくります。

文学藝術等に(西洋化、大衆化の)損を補う道が残されてはしまいか。我々が既に失いつつある陰翳の世界をせめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という伝導の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。

谷崎のように、僕たちも見えない状況であるからこそおぼろげにみえてくるもの、かんじられるものを、すこしいつもよりあかりを暗くして、社会性を絶ち、イヤホンを外す時間が必要なのではないか、と思うし、読書はそれを誘発するシステムとして大きな役割を果たすのではないかと感じます。

 

 

 

 

陰翳礼讃

陰翳礼讃

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