pleetm's blog

日々考えた事や読んだ本について書くブログです。自分の書いたことって相手にどう伝わるのか、興味があるので、お時間ある方はコメントしていただけると嬉しいです。このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。

ヘヴン

読みました。

物事には意味がある。だから、この辛い出来事は自分への試練なのだ、これを乗り越え、克服することで私は成長するのだ。

もっともなことのように聞こえるかもしれません。だけど、この小説はその違和感にまっすぐに向き合います。

この、何事にも意味を付与するという思想は、物事を上下、二項対立、相対化することでしか物事を見ることができない。

この作品では苛めを通じて、これを描いています。いじめられている少女が、進んで虐められるようになっていき、その精神は、いじめられてあげている、いじめている人より自分が上、という精神構造になっていきます。これによっていじめを乗り越えようとする。だけど、苛めは終わらない、いじめている側は何もそのような考えはなくただただ気持ち悪いからいじめていたりする。このような上下構造は、宗教や階級社会のように、上下の両者が認識しない限り、機能しないと思うのですが、その構造を一方的に内的に作り出すことによって、理不尽を克服しようとします。

でも理不尽というのは、そういった一方の理屈が通じないから理不尽なのであって、一方の論理はそれもやはり、逆からすれば理不尽なのです。つまり、理不尽は理不尽として存在することを認めない限り対処は出来ないのではないかと思いました。

 

この作品の主人公は斜視が原因でいじめられていると思い込んでいたのですが、最終的にそれが原因ではないと知ります。ただ、いじめていたのだ、ということを知ります。

斜視を手術して治した結果、見える世界がかわり、物事の複雑さを見ることができるようになった過程を視覚を通して表現されています。

斜視が治ったからといって、いじめられなくなるわけではない、ただ、自身のコンプレックスを修復したことで、不思議と、いじめられる気持ち悪さ、いじめたくなるような気持ち悪さがなくなる。そうすると、いじめる理由も動機も興味も自然となくなる。そして、主人公の少年は世界が立体的に出来ていることを発見し、それに感動します。

たぶん、世界の見え方というのは人それぞれのレンズを通してのみ見える虚構の世界なのだとおもいます。だから、自分次第でいかようにも変わりうる、だから、もし、今の世界に苦しんでいるとしたら、もしかしたら、自分の見方が固定されている、ということなのかもしれません。もちろん、意味を求め続けることもいいかもしれません。だけど、もしかしたら、自分がどう見ていたか、を再発見することによって救われる何かがあるのかもしれません。

本作に出てくる斜視はコンプレックスの物理的なモチーフだと思います。通常は、これが内的に存在しているわけですから見つけにくいのですし、一つとも限りません。でもこの内的な思索を続けるということは、発見と変化につながるのだと思います。そして、それが誰かにとって何かの救いになる、という事があり得るのだとおもいます。

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

 

 

f:id:pleetm:20210403165447j:plain