読みました。
硬い文章がイメージに浮かびやすい三島由紀夫ですが、読みやすい大衆向けの作品も多く手掛けています。ただし、とっつきやすいジャンルの本であっても、やはり三島由紀夫らしい信念が貫かれていて、この嘘をつかない性格が多くの人の興味を惹くとともに、作品にも反映されているのだとおもいます。
人生、人間について
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけではどうにもならないということを学んで、それに絶望して、だめになってしまう人は人間として伸びていけない人だと言わなければならない。
いくつか段階があると思います。自分の正しさにこだわる人、次に自分以外にも正しさがあることを知る人。そして、それを知って、認め合う人、諦める人。しかし、三島はその次の段階として、はっきりと、絶望したあとどうするかが大事だと書いているのだと思います。絶望することは当たり前で、その上で伸びていく。伸びていくとはいろんな意味が含まれていると思いますが、変化を起こそうとする、とか成長する等、さまざまな解釈ができると思いますし、この解釈は読者に委ねられていると思います。だけれども、絶望の先にしっかりと手を伸ばそうとする事が人間である、という事が三島の人間哲学としてはっきりと表現されている部分だとおもいました。
「新恋愛学講座」ですから、これを恋愛から書いています。
人間が成長する途上で、(初恋の)幻滅にうちひしがれないで、なお積極的な態度で人生に向かっていくという力強さ。(中略)自分に誠実にあったことによって、実は自分に「だけ」誠実だったことになる。恋愛の感情では、誠実さというものは相手に対する誠実さである。
すべてあなたが悪いのよ→女性が自分の幸福を破壊する行為
こういうことを言いたくなる女性に向けて書いています。三島の言葉を借りれば、
自分にも責任があるという気持ちになれば、男性は愛情を感じる。責任を取れとしつこくやったり、結婚を強制されたりすれば逃げ腰になる。男のせいにするのはあまりに肉体というものに妙な偏見があり、世間的概念にとらわれているから、自分の責任を放り出して、男のせいにする。
固定観念のためにみすみす悲劇に落ちていく。
私はこんなにヤキモチを焼いて惚れているんだから、あなたもそれに報いなければならない。
男性、女性という切り口になってはいますが、三島は自分を正しいと信じすぎる行為に警鐘を鳴らしているのだと思います。嫉妬というのは私「だけの」正しさを証明しようとすることから、私は愛しているのだから正しい、その正しさにむくいないのは相手が不実、不正なのだ。という論理です。三島はこれに対し、「愛情のほんとうに純粋な判断」に立って考えることを推奨します。難しく思えますが、ようはちらっと反省することも大事だよ。ということなのだとおもいます。
でも、時々、反省を強要してくる人がいる場合もあります。反省というのは自分が自分に対して行う行為であり、他人にさせられて反省するものではないので、反省しなさいという人は本当に反省したことはない人かもしれません。三島のいうとおり、人というのは自分にも悪かったと思うところがあれば自然と考えが変わるものだと思います。
嫉妬
上述したところと重なりますが、三島は嫉妬に注目していたのかもしれません。
こんな文章も残しています。
嫉妬している人は、いわば真黒な水を満たしたコップを目の前に置いてそれをにもほそうとしている人である。その中の一滴の希望にどうしても飲みなくなるのだ。
別の観点ですが、
大学を出たから私はインテリだ。といまだに思っている人はいまだに頭が変なのであり、したがって学校は一向に終わっていないのだ。
これもよくわかる気がします。勉強している人ほど、頭が良いなと思う人ほど、学校だけの勉強では不十分だと感じていると思いますし、違う種類の勉強もあると知っているように思います。また、もっと勉強しなければ、と思っているのだとおもいます。そういう意味で、三島はアイロニーとして、インテリぶった人々に、「まだ卒業できてないよ」と言っているのだと思います。それほどに身体を通じて経験することを重要視していたのだとおもいました。