pleetm's blog

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何とかならない時代の幸福論

読みました。

タイトルに惹かれて読みました。しかし、本書の中にわかりやすい回答は示されていません。けれど、読む人が自分なりにどう突破口を見つけるか、そのヒントが隠されているように思いました。

世間に生きている

多くの日本人は、「社会」に生きず、「世間」に生きているのではないか、という重要な問題提起がありました。ここでいう「社会」とは、自分と利害関係のない人を指し、「世間」とは自分と利害関係のある人を指します。

日本では、周囲の人たちが嫌がるから、という理由で自分の考えたこととは反対の決定をすることがあります。例示されていたのは、避難所へのホームレスの受け入れです。市役所の職員は、他の人が嫌がるからという理由で避難所へのホームレスの受け入れを拒否したことがありました。

しかし、この出来事に対して、

「本当に自分のことを考えたら、誰かの生命に対して責任を負うなんてことはできないのではないか。周囲の人が嫌と言うはずだ、というのは結局、社会への信頼が足りていないのではないか。」

とブレイディさんの息子が言ったと言うのです。

 

この時の「世間」とは単に自分を起点にした周囲にいる人々のことであり、同時に、自分の情(受け入れるの嫌だな、受け入れてなんか言われたら嫌だな)を「世間の声」として言い換えたものに過ぎないのではないか。ということでした。

つまり、自分が「世間」と言っているのは虚像でしかなく、それは突き詰めていけば自分自身でしかない。それを「世間」を守護に代弁させようとしているだけなのではないか。

このことから、自分が思う「みんな」を今一度考えてみることは重要で、本当に自分の思ったことを言うためには、「社会」を信頼しないと発信できないが、自分たちは「世間」と「社会」をどう捉えているか考え直してみることはとても重要だと思いました。

 

「世間」から目覚めるには

この「世間」はどのように形成されたのか。これは、同調圧力(同じでなければならない)と言う考えから来ているのだとおもいます。これには、教育が大きく影響しているとのことで、「平等」と「同じ」を履き違えているせいだといいます。

日本が、みんな同じような生活水準で、同じような習慣で生きていた時には、「同じ」と「平等」の間の乖離はそれほどなかったのかもしれません。しかし、現代では、同じであることは不平等になるし、平等であろうとすることは同じではないと認識することです。このあたりを学ぶのは教育しかないと言うことだと思いました。

そして、これは、日本人は「自立をしていない」ということ、「自我」がない、と言うこととも同じではないでしょうか。通常、人間は2、3歳になると、人と違うことをしたいという欲求が生まれるそうです。これは自分でありたい、という原始的な欲求であり、クリエイティビティの目覚めでもあります。しかし、日本の同質教育では、同じであらねばならず、自立が妨げられているのではないか、と感じます。

 

では、この「世間」からどのように抜け出すことができるのか。

それは、もしかしたら、この「世間」という虚像の中にこそあるのかもしれません。

我々は、本当はみんな違うことを知っているにも関わらず、「皆同じ」という建前の中に住んでいます。つまり、その建前の中に、本当の多様性が生まれている可能性があるとおもいます。例えば、教育現場では、公立の学校であれば、お金持ちもそうでない子も同じ教室で同じ授業を受けます。みんな同じだからです。そこで、子供たちは多様な価値観を身につけることができるのかもしれません。それこそが、日本の「世間」を抜け出す風穴になりうるのかもしれないとおもいました。

 

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