読みました。
有名だけど、読んだことない作家を読んでみました。
小学校が舞台の子供、親、教師達の奔走を描く小説でした。
それぞれの登場人物が魅力的に描かれています。伝えたいメッセージがとてもわかりやすく、それでいて、さまざまな角度からも読むことができる作品でした。子供の目線から読んでも良いし、子供の保護者の目線から読んでもいい、また、教師の立場から読んでも良く、それぞれに考えるところがあります。
しかし、統一して語られているのは、格差、多様性、個人のあり方。
先生が子供たちに文章の書き方を教える場面。
・したこと
・見たこと
・感じたこと
・言ったこと
・聞いたこと
・そのほか
と黒板に書いた後、「見たこと」「感じたこと」「言ったこと」「聞いたこと」「そのほか」に○を、したことに×をつけます。つまり、単なる出来事を書くことは大事ではなく、それを自分がどう受け取ったか、を書きなさい。といいます。
そして、さらに先生は続けます。だけど、したことを一切書かないのは良くないと言います。
「世の中にはええやつもわるいやつもおる。わるいやつがおるから、ええやつも引き立つ」
出来事や状況を説明せずに、自分の意見だけを書いても、それは相手に伝わらない。ということに加えて、バツをつけたから、悪いからそれを排除するのは間違いだ、と多様性の重要さや一部を排除する考え方の危うさをも教えてしまいます。
子供たちは、文章を書くことを通じて、一見不必要と思えるものが重要である、という柔軟なものの見方を意識せずに身につけていくのだと思います。
これは、なんでもマルバツをつけたくなる社会の傾向を俯瞰し、それを説教臭くなく鋭く指摘していると思います。
また、こんなこともありました。
一部の人の都合でたくさんの人が不利益をうけるのはいけない、というのはもっともだ。しかし、わたしは、人のことなど知らん顔をしていた我が子が、他人のことで悩むようになったのを目の当たりにし、自分の考えが間違っていたのではないか、と考えるようになった、と話す親の場面があります。
そして、こう続けます。
弱いもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる。一人の要求を自分たちの要求として考えていかなければならないのではないか。
つまり、少数の意見を不要として排除すれば、一致した(かに見える)多数の中にまた少数が生まれる。これが繰り返されると、最初多数側にいた人たちも、次は、自分が少数(=排除される側)になるのではないか、という怯えが生まれ、その怯えから、自分たちの正しさを数が多いことで正当化しようとする作用が働くのではないでしょうか。とすると、少数を排除することは、それが繰り返されるだけでなく、より強力になっていく可能性があります。
小さな、自分では思いの及ばなかった意見に耳を傾け、その背景を知ろうとする姿勢が実は自分を救うことにもつながるし、それが多様性を維持すること、差別を食い止めることにもつながるのではないか、と感じます。
このような全体主義的な考えに対し、どのように立ち向かえば良いのか。
それは、
変わらないこと、仕方のないこと、とあきらめるのではなく、その中で精一杯の抵抗をすることが大事なのかもしれません。
恵まれた人たち、大きな声の意見に注意が行きがちですが、対立という構図で理解するのではなく、自分は全ての意見を聞こうとしているのか、聞こうとしても聞くことはできないことを肝に銘じつつその努力をしているか、という自分に対する正しい疑いを持ち続けることが大事なのではないか、ということを感じました。
ほかにも印象的な場面がたくさんありました。