pleetm's blog

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〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究

読みました。

中動態についての説明はここでは完全にはできませんが、能動態でも受動態でもない中間地帯があるというのは想像できるかと思います。例えば、カツアゲをした人がいる。カツアゲをするのは能動的な行動だから、当人の意思によってなされたものである。だけれども、その感情の仔細を見てみるとどうも違うらしい。つまり、実は、カツアゲをした人は、属するグループの親分的な人間から無理矢理やらされていて、文句も言えない状況だったとする。この時、カツアゲした加害者は本当に当人の意思においてその行動を行なったのかというとそうではない可能性があるのではないか。行動と意思との関係は単に一対一で考えられがちだけれども、実はもっと複雑で、やりたくないけれどもやらざるを得なかった、というような行動もあるのではないか。そのような中間地帯にある行動をどのように考えるのか、それは能動態でも受動態でもない中動態と言えるのではないか。

本書は、ここから、人が自身の行動に責任を感じるにはどのようなプロセスがあるのか、他人が責任を(責任「感」ではなく、)おわせることは果たして可能なのか、を議論していきます。

この本を読んで、ある種の倫理観や常識を人に押し付けて、あなたはこう考えねばならない、という教育の先には何があるのか。を考えさせられました。思考の自由を与えられなかった人間は、思考というのは羽ばたいてはいけない、と信じ育っていきます。その人は、客観的にみれば、正しく、倫理的で、間違ったことをしない聖人君子かもしれません。けれど、それは、他人にそのモラルという型枠をはめようとすることになるのだと思います。その外側が想像できない人間になります。

そうなるとどうなるか。物事に善悪をつけ、自分は常に善の側にたとうとします。もしも、自分が間違ったことをしてしまった時には、自分を許すことができません。そして、それはもちろん他人も許せない、ということを意味します。このような人の頭には厳然とした、善と悪が存在していて、文字通り悪は悪となりまったくの柔軟性を持ちません。

そこからは何が生まれるでしょうか。際限のない自己否定。こういう人は「自己肯定感」を求めて彷徨い始めます。そう、自己肯定感も自己を肯定しなければならない、というこれもまた強迫観念により自分を追い詰めていくのです。

そのような世界で苦しむ人に、どう手を差し伸べれば良いでしょうか。これは簡単なことではありません。下手に手をだすと自分が引き込まれていくようなアリ地獄です。なぜなら、そこには「正しい」という信仰があるからです。

この種の正しさに苛まれている世界にどっぷり浸かった苦しさ、というのは、想像を超えた苦しさだと思います。誰しも多少は足を踏み込んでりる類のものかもしれません。

外から見れば、堂々巡りをしているだけなのですが、その当人は、おぼれて死ぬかのように苦しんでいるのです。落ち着いてたてばただの浅瀬なのにです。でも、当人にとってはその苦しさが生きるか死ぬかの瀬戸際になっています。

この答えはたぶんまだどこにもないと思いますし、今後もずっと対応の仕方を考えていかなければいけない、これからよく生きるための課題だとおもいました。

 

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

<責任>の生成ー中動態と当事者研究

 

 

 

 

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