pleetm's blog

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人間

だいぶ前に読んだので、うろ覚えです。

「もう時間も経ってるし、平気なふりするのも上手くなったけど、それでもやっぱりあかんねん。あの時期に起こった出来事を自分の中で薄めるためにどうしたらいいんかなって考え続けてんけど、自分にとって特別な体験の数を重ねることで薄められるんじゃないかと、なんというか、そういう苦しみのコレクターみたいな」

思い出したくないようなこと、それが自分に起きたとしたら、それはどのように克服できるのでしょうか。あるいは克服ではなく共生するのが選ぶべき道でしょうか。思い出したくもない、心の奥に押し込めておきたい思い出ほど、そのように意識していることもあって、頭から離れることはありません。それは、「魔が差す」という言葉がピッタリであるかのように、いつでもどこでも隙を窺っていて、絶妙のタイミングで最も痛いところを突いてきます。

この引用のように、忘れようとするために、似た、あるいは全く別物の良いこと悪いことを集めて重ねて見えないように、薄まるようにしていきます。だけど、絶対にゼロにはならない。このゼロにならなさ、起きたことのどうしようもなさという現実はどうも変えようがなく、変えようとすると却って期待しない結果が吸い寄せられるようにやってくる。

なんどもなんども払いのけようとするけれど、そうするたびにやってくる。やってくるばかりか自分から同じ過ちを犯す方向にいってしまうこともある。同じではないが似た状況をクリアすることで、過去を上書きしたいと無意識に思っているからかもしれない。次こそ上書きに成功するのかもしれないという気持ちが似た状況を呼び寄せてしまうのかもしれない。でもそれは、次は当たるかもしれないと買いに並ぶ宝くじや、次には勝てるかもしれないとまたお金をかけてしまうギャンブルと同じような精神構造な気もする。だから、ひょっとしたら、逆転できるかもしれないけど、やっぱり薄めるためにコレクターになるっていうのは吉と出るのか凶と出るのかわからない。

僕は、何周自分の人生を生きたとしても、自分の根っこはやっぱり自分で、完全に書き換えることはできないのではないか、という気もしている。だから、もしかしたら上書きはできないのでは、と思っている部分がある。でも、同時に、その終わりのない収集癖が昂じて、そもそもの目的を忘れちゃってた、なんてこともあるかもしれない、とも思ったりする。だから、嫌なことを忘れてしまうくらいにその嫌なことを意識したいろんなことをやってみることが突破口になるかもしれない。もしかしたら、その過程が、最初意識にあった嫌な思い出を違う形で理解するための材料を提供してくれるかもしれない。それが、じつは乗り越えた、という瞬間とも言えるのではないだろうか。

だけど、やっぱりしんどかったことはしんどかったのだから、いつでもそんなふうに立ち向かわないといけないわけでもなくて、避けて、逃げるべき時もあるだろう、ともおもう。それも自分を労わる一つのやり方だと思うし、徹底的に逃げる、つまり徹底的に無関心になることで少しずつ薄めることができるような気もしている。

答えはわからないけれど、そういう苦しさを少なからず抱えている人もいるわけで、この言葉たちはそういう人たちに寄り添っているのだなと思いました。