読みました。
森田さんは独立数学者です。
森田さんの紡ぐ言葉はどこか詩的というか、客観的に描写しているにも関わらず輪郭が優しく、それでいてなかなか言語化がこれまでされてこなかった感覚的な部分を丁寧にかつフレッシュな形で切り取るような感じがします。
それは森田さんが「エコロジカル」と言う言葉をいくつかのやり方で説明をしつつ論を展開している点に着目するとよくわかりますので見てみたいと思います。
・多様な時間と空間の尺度があることに目覚める
・抑制するのではなく、新たな感覚と喜びに目覚め、これを育てていく
・錯綜する関係の網(メッシュ)の中で自己を感覚し続ける
・不気味な現実と向き合い続け、固定した思考パターンを解きほぐしていくこと
そして、学びと言う言葉の説明にも似た要素が見られます。
学びとは不可解と向き合う時間の中で自己を書き換え続ける作業
森田さんの文章を読むと、おそらく
エコロジカル=学び=可塑性
とも言えるのではないか、とおもいます。特に「エコロジカル」には単に可塑性だけではなく、生態系(広い意味での)における自分を感覚すること、そして感覚し、自己変化し続けること、という点も含まれており、それが「学び」とも言い換えられるのではないか、と思います。
そういったエコロジカルな世界を想像していく上で重要なキーワードは、ダンス。
ダンスは相互に感じ合うもので、必ずしも言葉を介して歩調を合わせるものではない、
互いに心を感応させ合うことで、響き合うことができる。
そして、それは別の場所に書かれている「不在を思うことで存在に触れる」とも通じ合う感覚ではないか、とおもいました。
そして、これを実現するものは何か。
森田さんは「弱さ」だと考えています。
弱いからこそ他者と歩調を合わせることができる。
弱いからこそ心を響き合わせることができる。
そうやって、「あなたの声は聞こえているよ」と耳を澄まし合うこと。
それが、エコロジカルな世界を作る要素だと森田さんは考えているように読めました。
そして、それは何かを声高に叫ぶのではないけれども、
「ここにいてもいい」と思える世界を作ることにつながるのではないか、と感じます。
ぼくたちは、遠くのだれかが自分に対して、ぼくたちの言葉にならない言葉に耳を傾けようとしてくれる人がいることを夢想し、また、反対に、自分が耳を澄ましているよということが、気にかける相手になんらかの形で届くことを夢想することがあるかもしれません。そして、それが思わぬ形で相手を何かの形で助けることになっていることもあるかもしれません。
そういった存在は確認できないものだし、確認をしようと躍起になるほど、自分の手からすり抜けていくような頼りないものだと思います。それでも、それをどことなく感覚しようし続けることによって、「存在」に触れることができるのだろうと思います。そのためには、観察を怠らないこと。そのときにふと頭をよぎるものに敏感でい続けられるか。よく生きるとはそういうことなのかな、と考えさせられました。