pleetm's blog

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平気でうそをつく人たち

邪悪とは何か。

邪悪と罪悪を区別する必要がある。

邪悪性とは、その人の罪悪を認めることを拒否することである。

つまり、罪悪感を持つことは悪いことではなく、罪悪感を持つことから目を背けようと(無意識に)する人のことを邪悪な人、という。

これは、自分を客観視するということとも少し違う、見ないようにするという潜在的な意図であり、それが邪悪性そのものなのだと思います。これは、人はだれしも悪いことをしている、ということを認めることができず、自分は悪い人間ではない、と思いたがる性向、そして、それが世界を二分し、その分断によって結果的に自分が苦しんでいるということに気づけていない、ということを意味します。だから、邪悪な人は、自分で作りあげた何かの被害者となり、苦しむという状況が生まれます。

また、この邪悪な人はこの邪悪性を除けば普通の人、あるいは邪悪性があるがゆえに普通以上に倫理観、正義感が強い人である場合もあり、なかなかこの邪悪性を見つけることは困難です。

ぼくたちは、自分たちのなかにこのような邪悪性が多かれ少なかれあることを認識しつつも、邪悪な人から自分を守ることも覚えなければなりません。なぜなら、先に述べたように、邪悪な人は周りに被害を報告するのも上手だからです。そうやって、敵と味方に世界を分けて、相手を攻撃しようとします。それが邪悪性の特徴だからです。

 

また、邪悪な人にとっては自分に見える世界が真実です。一方、精神的に健全な人は真実に従おうとする継続的なプロセスを持つ人と本書では説明されています。このように、真実に対する考え方がまるっきり違っており、かつ表裏一体ともなっているために、邪悪な人を見分けることが難しくなっています。その人にとっての真実と、宗教観が合わさればその人は敬虔な宗教家になるのだろうし、自分の真実と他人からの見え方のギャップを認められず悩んでしまう人もいます。このように、邪悪性がもたらす影響というのも人によって全く変わってきてしまいます。

 

ここまでは、邪悪性を個人の問題として話してきましたが、集団としての邪悪性もあります。それが、戦争で人を殺す、ということに現れるわけですが、興味のある人は読んでみてください。

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