pleetm's blog

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落日燃ゆ

読みました。

昨日8月15日が終戦の日でした。

今年戦後75年を迎え、日本が戦争をしていた、ということを考える空気感がなんとなく薄らいでいるような気がしています。その当時、何が本当にあったのかを知ろうとすることが今の日本で起きていることを知ることにも繋がることにもなるようなきがします。

本書は戦後の東京裁判で裁かれたA級戦犯のうち唯一の文人である広田弘毅。外務省の官僚だったそうです。広田の人生で通底していたのは「自ら計らわぬ」ということ。東京裁判でも、何か話せば、他人を貶めてしまうことになる、として必要なこと以外は言わなかったそうです。裁く側の連合国側にとってはそれが逆効果、つまり共謀の首謀者に仕立て上げられてしまうのがなんとも皮肉な成り行きでした。

連合国側にとって不可思議で理解できない人物がこの広田と東條英機。先に述べたとおり、自分にはこの戦争を防ぐことができなかった責任を感じ、またそれを他人に押し付けることを忌避して口外しなかった広田に対し、東條は徹頭徹尾自分の意思ではない、という観点から何も言わなかったように映りました。保身や自分に責のあることは極端に何も言わない人間だったのかもしれません。

ただ、日本的な文化や価値観を十分に理解していない、西欧の人間からはこの2人の振る舞いが同様に奇妙に見えてしまったのでした。彼らからは何かを隠しているに違いない、という幻想から抜け出すことができなかった。また、彼らには「組織」という実態のない空気みたいなものが人を突き動かしていくことがある、という風土がついに理解されなかったように思います。その見つけることができない犯人をA休戦犯という形で人に見出そうとした、それが東京裁判なのだと思いました。

ここからわかるのは、その実態を持たない「空気」をそれぞれが解釈して、結果的に破滅的な行動になるという性癖が日本人には染み付いてしまっている、ということです。これは現代社会にも全く同じことが当てはまることが言えるように思います。「普通とされていること」それ自体それぞれ解釈が違うにもかかわらず、そこには言及をせず、非言語的に合意された「普通」が基準になる。その意味において、日本はずっと戦後なのだと思いますし、その呪縛から抜け出すことができていないように思います。先の戦争で日本が改めるべきものはなんなのか。壊滅的なまでに突き進んでしまった制度設計にはどのような落ち度があったのか。大日本帝国憲法明治維新で作られているわけですから、実は明治維新の失敗の尻拭いを国民が死ぬことによってさせられたし、尻拭いをしても、その性癖自体は直っていない。明治以降がずっとつきまとっており、まだ、欧米に追いつくという比較の形態でしか自国を省みることができない、というのが現代日本なのかもしれません。

 

落日燃ゆ

落日燃ゆ