pleetm's blog

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非社交的社交性

読みました。

 

おそらく誰もが自分の気にいる人とできるだけ多く関わり、気に入らない人とはできるだけ距離をおいて暮らしていきたいと思うのではないでしょうか。その思いと同時にそれがどれだけ難しいことかということも痛感しているのではないでしょうか。この本では、そのヒントになることがちりばめられている様に思います。特に、大事にしなければいけないと筆者が訴えるのは、気に入らない人との交流を大切する、ということでした。それは排除することではなく、その人たちとの交流から自分がよりいきやすい場所を学んでいく材料にしていけば良いということだと解釈しました。その意味において、気に入らない人との交流は役に立ちうるのだ、というのが本書の主張だと思いました。

 

そのためにはどうするべきなのか。自立すべきと筆者は述べます。では自立とは?他人とどこまでも対等に生きること。逆に自立していない場合、どうなるか。これは人の言動を見ればよくわかることだと思いますが、筆者が指摘していることは、他人に期待ばかりしている人にならない、ということ。

そのような人はその期待がどれだけ人を苦しめ、またその期待した人から激しく憎まれるかわかっていな人だと言います。よく見る過干渉になんでも失敗しないように先回りする、いわゆる毒親のようなものが想像しやすいように思います。もちろんそれだけでなく、職場でも友達関係でも「期待していたのに」という押し付けでどんどん来る人はいると思いますが、その闇の深さは毒親が一番強いでしょう。しかも気をつけないといけないのは、そんな毒親に育てられた子供は「いい子」であり、そうじゃない、と抵抗することすらできないように調教されているということです。

そのような人が特異的に身につけているスキルは一つ。「我慢する」ということ。自分の思ったことは封印し、「良いと言われていること」に合わせるようになる。それをサバイバル能力として体得してしまっています。そうなると、自分は我慢をしてきた分、それを人にも要求するようになるし、「良いと言われていること」から外れた所での体験知が蓄積されない。それは、ここまで大丈夫という雰囲気の手探りによって得られる能力ですが、自立をしていく上で肝心の、振舞いの意味を分かる、多角的に理解する、言葉の総体を捉える、という力が身につかない。しかもこれは、年齢がいってしまうと身に付けるのは困難なスキルなのだと思います。

このような人は純朴で悪気がなく失礼なので、こちらから救ってあげることはできませんし、本人たちが苦しむことはあまりなく、ある種の楽園に住んでいます。ほんとうにその能力の不足に苦しみ、手に入れようとする人々は、正常に自分自身と向き合っているから、この違いは歴然としていると思います。だから、実際に苦しむのはそのような人と交流する側の人間なのではないでしょうか。

 

そこで冒頭に述べた気に入らない人との交流を大切にする、という話に戻ります。先に述べた純朴で悪気のない失礼な人との交流をどう大切にするのか。本書を読んでも一言で言える明確な答えは見つかりませんでした。ただ、本書での筆者の他人に対する態度が何らかのヒントになるのではないか、と思いました。それはやはり対等に話をするように心がけ、それが実現しない場合にはそれ以上関わらないようにする。ということも一つあると思います。これは非常に冷たい決断のように思えるかもしれませんし、その人を傷つけてしまうかもしれません。確かに人を傷つけることは称賛されるべきことではありませんが、誰一人として傷つけずに生きることもまた同時に不可能なことなのだと思います。だからこそ、人を傷つけてでも守るべき自己があるのであれば、それは優先されることもあると思うし、それによってきずつけてしまうこともまた受け入れて生きていかなければいけないのだと思いました。