pleetm's blog

日々考えた事や読んだ本について書くブログです。自分の書いたことって相手にどう伝わるのか、興味があるので、お時間ある方はコメントしていただけると嬉しいです。このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。

勉強の哲学

読みました。

これを中高生の時に読んでいたら、勉強することが何かで迷わなかったと思う。ぼくは勉強していてもな「なんでこれをしてるんやろう?」と思いだしたらそっちに行ってしまって、今やっているのが何に役に立ちうるのか、どう社会に適用できるのかとかを考え出してしまって、なかなか手につかなかった。

でも、今になってこの本を読んで思うのは、あのグダグダ考えていたことも、知識の転用という観点から言えば役に立っていたのだと思う。あの時読んでいれば、ぐだぐだ悩んでいる自分に悩むことなく、思い切り悩むことができたかもしれない。

勉強を少なからずしてきた人(ほとんどの人)は、物事を抽象化する能力とそれを水平展開してみることが勉強なのだという実感を持つことが多いと思う。本書はその多くの人が実感として持つ、抽象化・相対化の無限ループと水平展開をどのように組み合わせればよいのか、がかかれている。そして、それは、自己の脱コード化であり、身体を伴う創作である、ということに帰着する。

つまり、言語を用いて、言語を相対化することによって、言語を無表情に扱うという方向に進む。その過程において、いくら言葉を無個性に扱ったとしても、その人が用いる言葉の選択や言い回しには何らかのクセがにじみ出るはずである。それが言語の身体性であり、それこそがオリジナリティだと書かれている。

これは非常に納得がいく説明で、これはある種、自己の存在を肯定する話ともつながってくるのではないか。つまり、自己否定、自己相対化を繰り返し、なんて自分は無個性なんだと思うとき、そこからそれでも自分からにじみ出ているものがある。それは声の出し方かもしれないし、階段を左足から登るということかもしれない。そういう自分の良さも悪さもひっくるめてそれをそれとして扱う。それができたとき自己の存在をありありと体感できるのではないかと思う。そしてその体感できる自己こそが、誰からも何からも不可侵の領域にいる自己なのかもしれない。また、その自己も変化を続けており、それをつぶさに見ていくことが自己の変容と捉えることができるのだと思う。

 

 

小説も読んでますのでね。ではまた。