pleetm's blog

日々考えた事や読んだ本について書くブログです。自分の書いたことって相手にどう伝わるのか、興味があるので、お時間ある方はコメントしていただけると嬉しいです。このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。

PERFECT DAYS

見ました。

毎日ルーティン的に決まった時間に決まった生活を送る平山。毎日が同じように見えても、毎日が異なる。違うことが起きる。そんな生活を送る無口な平山の口から聞かれる幾つかの言葉と平山の周囲の人間模様、全てが立体的に一人の人間を描き出しています。

映画では語られないものがたくさんあります。なぜ、トイレ掃除をしているのか、妹との関係は、なぜ無口なのか、なぜ、毎日写真を撮るのか。どのようなことも明らかにされません。観衆はただ、彼の人生を部分的に覗きます。

この映画は、上述したような経緯の詳細を必ずとも必要とはしません。むしろ、焦点は今、平山が営んでいる日常の尊さに、われわれの目を向けさせることにあります。僕たちは、誰かが箒を掃く音、木洩れ日といった何気ないものやことを見ているようで見ていないのではないか。そう問いかけています。映画はやや理想的に描き過ぎている部分はあるのかもしれません。しかし、目には入っているのに無意識的に排除してしまっているものは本当はこんなに豊かなのだ、ということがしっかりと伝わる映画だと思いました。

なぜ平山はそういう人物になりえたのか。先に述べたような誰もが見逃してしまうものに、嬉しさを感じるには十分なほどに繊細な感性を持った人間であることがわかります。過去はわかりませんが、映画の幾つかのエピソードから、元来こういった生活を送っていたのではなく、全く異なる世界で生きてきていたのではないか、ということが窺い知れます。逆に言えば、そうでなければ、手に入らない類の感性とも言えるかもしれません。

だから、平山はその尊い一日一日をperfectにしていきます。それは、安易な幸福ではありません。したいことをしているわけでもないかもしれません。それでも、満ちていることを肯定しようとする、真摯な営みであると感じました。それは平山の言葉にも表れています。「影と影が重なり合って、何にもならないなんて、そんなわけあっていいわけないじゃないですか。」影とは一日一日のことであり、平山が撮り続けている毎日のモノクロ写真でもあるのでしょう。その普通の日を重ねて何にもならないわけなどない。そう平山は感じたのかもしれません。

そして、自分の世界と他者の世界とのつながりを理解しつつも、その日その日には意識をしすぎないように淡々と生きようとする姿には清々しさを感じます。

 

 

Hirayama starred by Koji Yakusho spends everyday with routine habits and work.  Despite being almost the same days, they are all different respectively.  Indeed, everyday is different because different things happen.  Such an apparently monotonous daily lives gradually depicts his figure along with people and happenings surrounding him.

We don't know why he undertakes the toilet cleaning job, what relationship he has with her sister, why he is quiet, why he takes pictures on a daily basis, and so on.  Nothing like these is uncovered and we are just allowed to look at part of his daily routine.

This framing successfully made us look at what we have overlooded in our everday life.  His largely unchanged days make us find that we haven't looked at what we have  seen.  In other words, we uncousciously rule out those as wasteful things.  This film strongly focus on such an underestimated indispensable each day.

My curiosity goes to the reason why he has become such a peson who respect everday's each tiny thing. The movie doesn't clearly say anything, but indicates that he spent a different sort of life style in the past.  This upended life might have offered him a sensitve sensor to cherish tirivial things around him.

Hirayama has been trying to make his each day perfect.  It does not necessarily mean happiness.  It may not be completely fulfilling.  Notwithstanding, he tries to make it worthwhile.  Such a struggling behaviour is an expression of his endevour to approve his life.  The overlays of such a normal but precious days will become something. Even if it is not special for others, it must be an irreplaceable fortune for him like photos he has taken all his days.

 

今に生きる親鸞

親鸞の有名な言葉に、 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものがあります。これを「悪人正機」といいますが、普通なら、 「悪人なほもて往生をとぐ、いはんや善人をや」 というところです。ところが親鸞は逆に、善人が往生をとげるのだから、悪人はなおさらだ、なぜなら自分を善だと思っている人間は、どこかに自力を頼みとするおごりの心をもっているが、自分を悪だと自覚している人間はひたすら阿弥陀仏を頼みとする謙虚さをもっているからだというのです。法然ならば患者に往生の正機があり、賢者には正機がないというところです。 これはとても大きな問題で、この理念がなければ、親鸞は思想家としては、他の同時代の僧侶とおなじで、別にどうということはないことになってしまいます。
念仏だけでいいという価値観をウソだという人はたくさんいるでしょう。他の宗派のお坊さんもそう言うでしょう。しかし、親鸞の考え方からいえば、とにかく自分は価値観としては最終的なところまで到達したという自負があったのだと思います。
菩提の心を起こし、念仏を称えようと心に思う内在性は、常識からは善なる行いだということになります。法然親鸞は、そういう心の状態を認めていないと思います。言葉で名号を称えればいいのだ。それで浄土へ往けるのだと言い切っています。 法然は「愚者になって往生する」という言い方をしますし、親鸞はおなじように言えば「悪になって往生できる」と言います。
浄土なんてあるのか、ほんとうにあるなどというのはつまらない考え方だ。浄土はあるとも言えるし、ないとも言えるぐらいなことを言うほうがよほどいいので、まだそっちのほうが正しい、というのが親鸞の考えです。
一般論でいえば、人を殺すのは、人間の倫理から言って絶対に悪いことになります。しかしもし、業緑、因縁があると、絶対に悪いことだって人間はしてしまう存在なんだと言っているわけです。例えば戦争になれば、百人、千人殺すこともあるかもしれません。 自分だけは別だなんて考えるのは大間違いだ。かといって、業縁がなければ一人だって殺せない。そして、その人間は、別の人間ではない。つまり同じだ。そこの問題が解けなければ、善と悪の問題も、第一義の問題としては解けませんよということを、親灣は徹底して言っているのです。 唯円が、「器でないから殺せない」と言っているところを、親糖は、「業縁がないから」という言い方に変えています。こういう言い方をすると、普通の善悪、倫理が、横の方に最大限に拡げられることがわかります。俗なことを言えば、親機はとても危ないことを言う人だと思います。 しかし、この「業縁」と親鸞が言っているものは何かと考えると、それはたぶん、親鸞が、人間と人間との関係の中で出てくる声、善悪の伝播的な機縁の中に、浄土を自然に含ませてしまったときに出てくる考えだと思います。
「確かに、ここに飢えて倒れている人に、お金をあげたり、食べ物をあげてもいいだろう。しかし、そうしたからといって、この人たちを助けおおせると思ったら大間違いだ。そういう人たちを助けるか助けないかということは、二番目に重要なことで、そんなことはどうでもいいことだ。そうしたからといって、全員を助けられるわけではないし、たまたま出会った人を助けるだけだ。
自然に自分の計らいですればよいのだと言っています。おのずからの計らいで、助けたいと思ったら助けなさい。そうでなければそれでもいいですよ。わざと痛めつけたりするのは、自分から計らうことだから、善いことをするのと同じように、そんなことは第一義の問題にはなりませんよ、と言っているのです。 自分が言っているのは、目の前で困っている人を助けても、最も大切な救済の問題にはならないというだけで、自分の心が、どうしても助けざるをえなかったら助けなさい。それが自然ということだ。だけど、そんなことが第一義だと思ってもらっては困るというだけだ。親鸞はこう言っているのです。 目の前の人を助けるかどうかというのは、相対的な善悪にすぎない。徹底している善悪とは、ひとたび浄土へ往って(この場合の浄土は本質的な浄土ですから、死んでしまったあの世ということではありません)生をも見通せる、死も見通せる場所から還ってくるということです。つまり、自分が還ってきてそこで出てくる慈悲を第一義の慈悲と考えなさい、と親鸞は言っているのです。
往生というのは、何事も凡夫の計らいではなく、弥陀仏の誓願にまかせたからこそ、他力なのでしょう。さまざまに計らいあっておられることは、おかしいことと思います。(『末燈鈔』七) 親鸞はこのように、実現すべきことを、「深く信ずること」「念仏すること」と、「みずからは計らわないという心の状態」つまり、「まかせるという心の状態」、ただこれだけだと、繰り返し言っています。しかし、このことは、弟子や同信の人たちに、一番理解されにくいことでした。
親鸞は、弟子の唯円から、 「わたしは念仏を称えても、一度も喜んであの世へ往きたいと思ったことがないのは、どうしてでしょうか」と、問われたとき、 「そんなことは当たり前のことだし、私もそうだ。ほんとは喜ぶべきことなのに喜ぶことができないのは、順悩があるからだ。だから、煩悩具足の凡夫である自分たちは、ますます阿弥陀称名念仏で救われるのかもしれない。人間は、死ぬ時期がきたときに、おのずから浄土へ往けばよいのだ」と、答えました。
人間は、善いことをしていると自分が思っているときは、悪いことをしていると思うぐらいがちょうどいいというふうになっています。逆に、ちょっと悪いことをしているんじゃないかと思っているときは、だいたい善いことをしていると思ったほうがいいのではないでしょうか。
今に生きる親鸞

今に生きる親鸞

 

親鸞はものすごく丁寧に説明をする人だったのだろうと思います。だからこそ、読む人にとってはわかりにくく、核心をとらえにくいと感じる人がいるかもしれません。しかし、すでに自分の心で知っているのではないか?それに素直に従えばいいのですよ、それは何も悪いことでもありませんよ、いいとも言わないですけど、だからそこまで気に病まんでもいいんですよ、と包んでくれる、その言葉に多くの人は救われる思いを持ったのではないでしょうか。

人間は、自分の思いとは反対のことをしでかすことがある、ということをどう考えるか。本当にその人の責任と言い切れるのか、どこまでを責任として問えるのか、と言うのは今の哲学でも大きな問題と捉えることができるでしょう。

そして、いいことをしていると思ってもちょっとは悪いことをしているかもしれない、とすこし自分の正義を弱めてあげると、いいことを行うことによる悪い影響にも目を配ることができるようになるかもしれません。そこまで考えた上で、やっぱり自分の素直な心に従ったのなら、後悔する結果と少しは向き合えるようになるのでしょうか。

pleetm.hatenablog.com

 

Shinran seems to have been a person who explained well about questions he was asked.  His detailed explanation was so logical that everyone who liestened might have gotten all the more confused.  This is because they could feel beating around the bush instead of getting into the core answer. 

However, I think he said the same thing over again while the way of expression varied.  The variation of answer stems from his witness, but it could have arouse susceptive feelings of people.  Having said that, his words were so simple that there seem to be as many people who was saved by him as ones confused.

In this sense, he is recognized as a religious person, but the more correct evaluation can be a philosopher.  For this reason, other religious persons used to accuse of him due to his extreme thoughts and ordinary people tend to considerd him to be a good practisioner of religion. 

I am intrigued by his ambivalent feature mentioned above.  The interest in more deepened understanding on his thought have captivate me.

「空気」を読んでも従わない

「世間」と「社会」

学校のクラスメイトや塾で出会う友達、地域のサークルの人や親しい近所の人達が、あなたにとって「世間」です。 「世間」の反対語は、「社会」です。 「社会」というのは、あなたと、現在または将来、なんの関係もない人達のことです。
日本人は、基本的に「世間」に生きています。 自分に関係のある人達をとても大切にします。けれど、自分に関係のない「社会」に生きる人達は、無視して平気なのです。
外国人が、人の頼みをにっこり笑って断れるのは、「社会」にずっと生きているからです。 「社会」に生きる相手は、自分の都合で頼みごとをしてくると知っています。だから、いちいち、断ることを申し訳ないと思う必要がないのです。 ですから、あなたが人の頼みをなかなか断れないのは、あなたが弱いからではないのです。

「世間」はミステリアス

昔からそうしているから、みんな続けているのです。 無意味な校則の多くは、これです。 なぜ、こういう規則なのか、ストッキングの色や靴下の色、ひどい場合は下着の色まで校則で決めることが、どうして非行防止に役立つのか、どういうふうに生徒のためになるか。合理的に説明できる人はいないと思います。 ただ、昔からそうしているから、そうしているだけです。 「世間」は理屈が通じない、と言ってもいいと思います。

戦う権利と義務がある

「しょうがないよ」「しょうがないさ」「しょうがないもん」と、やりすごしたり、ガマンしたりするのです。 とても、残念なことだと僕は思っています。自分達の生きている「世間」や「社会」をよりいいものにするのは、私達の権利であり義務でもあると思っているのです。
あなたの戦いだけではなく、この国で同調圧力に苦しむ人々を応援することになると、僕は信じているのです。 あなたの戦いは、あなただけの戦いではない。そう思えれば、グループからはじき飛ばされても、集団の中で孤独になっても、生きていけると思えませんか? あなたの「世間」や「空気」との戦いを心から応援します。
「多様な視点や価値観は心を自由にする」ということが「相対的に考える」ということです

「空気」を読んでも従わない

「空気」を読んでも従わない

言うは易し。だけどとても大事なことだと思います。

ぼくはこういった本を読むといつも村上春樹エルサレム賞受賞スピーチを思い出します。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

世間の話も社会の話も結局は同じこと。一人の人間として大事にしたか。それは自分のことでも相手のことでも同じ。だから、もしかしたら、自分のことを大事にせずに、大事にしていないことにも気づかずに、空気に迎合している人を見ると、厳しい目を向けたくなるのかもしれません。

自分一人が、なんの深い考えもなく、多きに与することが、そのあとどれだけの人を苦しめてしまうのか、あるいは、そんなこと平気な人間になってしまったのか。ぼくは何も変えることができなくても、味方がいなくても、戦ったその人を称えることはわすれないと思います。それは、なにも変わらなかったとしても、その人にとって戦う価値のあるものだった、ということは真実であり、戦うべきものを持つことができたと言うことは美しくもあると思うからです。

全てが理屈どおりであらねばならない、と言うわけではありません。理屈だけで全てが解決できるわけでもありません。ただ、なにか世の中の難しく、複雑な問題に補助線を引けるのは理屈や理論なのだろうと思います。だから、みんなでいろんな補助線を引いてみて、見通しのよくなるところを見つけること、これが会話だったり、議論だったりするのだろうと思います。そこにアイデアをたくさん出せるように僕たちは勉強したり考えたりするのだろうと思います。

勉強してえらくなるのは決してふんぞりかえってお金をたんまりもらって贅沢するためではないのだとおもいます。人に理不尽を押し付けることでもないと思います。また、理不尽を飲み込むことを「大人になる」ことだと勘違いしたりさせたりすることでもないと思います。えらくなるのはそういうのを少しでも減らすためであって欲しいと思います。

不必要な貧乏はしなくてもいいけど、多様な視点を少しでもどこかのなにかに活かすことが戦いであり、僕たちの権利と義務なのだろう、と感じました。

 

It is easier said than done. However, it is still important.

Have you had respect for individuals including yourself? Haven't you overlooked your value? Or haven't you been aware of disrespecting yourself?

Have you thought about how much influence your indifference has on people in the following generations or others? Why don't you have any doubt about your attitude being subordinate to the majority?

I want to clap my hands to people who are fighting against such totalitarianism.  This is because at least to the person, the issue is worth fighting.  This is also because having something you think you have to fight for is beautiful.

自分との関係が重要な「世間」に生きる日本人

Poor things

見てきました。

大好きエマ・ストーンラ・ラ・ランド以上にすごい女優さんだと思わされました。

エマ・ストーンしかできる人が見当たらないのではないか、と思うほど適役で、2時間半と割と長い映画であるにもかかわらず、引き込まれました。

映画の序盤はモノクロで始まります。面白いのはエマ・ストーン演じるベラの心象風景が映像に表現されているところです。

主人公のベラは、その昔、身籠ったまま自殺を図るのですが、ある科学者がお腹の赤ちゃんの脳を母親の脳に移殖することによって、生きながらえ、その科学者の下で育ちます。そのため、体は大人ですが、脳は全くの子供です。その成長が映像としても表現がされており、鑑賞者は様々な疑問を抱きながら物語の進行を追うことになります。

その後のベラの成長が、動き方、話し方、表情全てに行き渡っており、その微妙な変化から精神的な成長や葛藤を見ることができます。

色彩や演技など、人が演じる映画でしか表現できないものがあるのだなぁと驚きました。


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com

 

This is a film starred by Emma Stone.  This is a great movie that demonstrates her unparalleled performance capability and is compelling enough to keep us seated longer than 2 hours in front of the screen.

Interestingly enough, the story starts with colorless picture, which indicates her internal scenery.  The monochrome situation gradually gets color and enriched by various meanings.  This composition of the movie made me feel that there is still something that only cinemas can express among various means of epression.



NHK出版 学びのきほん ともに生きるための演劇 平田オリザ

平田オリザさんは演劇という切り口ですがコミュニケーションの真髄だと思います。基本的に書かれていることは納得できますが、社会はもう一段ねじれているのでは?と感じるところもあります。

 

その通りだが、それが我慢に繋がるという負の側面もあるのではないか。

「社会に出たら、自分のやりたいことが一〇〇パーセント実現するほうが稀なことです。自分とは異なる意見でも、相手が何を望んでいるかを受け入れてあげると、自分の願いも八割くらいは実現するよ」

子供達が納得して聞いてくれるといいます。

ぼくもそう思います。しかし、社会はこの論理を個人が好きなようにできないのは当たり前だから我慢しなさい、わたしも我慢しているのだから、という説得のために使っていると感じてなりません。また、この理屈を社会が個人に押し付けることによって、自分が何を望んでいるかすらわからない状態にさせられているのではないでしょうか。

だからこそ、オリザさんの活動のように、小さい子たちに健全なコミュニケーションを経験させる活動が重要になってくると思います。同時に、すでにコミュニケーション不全を起こしてしまっている社会においても、大人たちが、受け入れてもらう、受け入れるという経験をもう一度できるような場所が重要になるのかもしれません。それほどに大人たちが孤独になってしまっているように感じます。

 

日本はハイコンテクストなのか。

日本がハイコンテクストな社会である、ということを認識することの重要性も指摘されています。日本社会を「わかりあう文化」「察しあう文化」とも表現されています。

この考え方に異を唱えるつもりはありません。しかし、違う側面からこのハイコンテクスチュアリティを理解することもできるのではないか、と僕は考えます。つまり、社会がコンテクストであると同時に、言葉がコンテクストに埋め込まれた言語である、という考え方です。つまり、言葉自体が意味とコンテクストを持ってしまっている。こう考えると、同じ言葉を話していても伝わらない理由がはっきりとしてきます。言い換えれば、言葉に埋め込まれた文脈への理解が異なるために、言葉の意味が理解できないと感じてしまうのでしょう。

このように考えれば文化やコンテクストが言葉を、コミュニケーションを規定している以上に、言葉自体が文化やコンテクストを形成する作用を有している、と考えられるのではないか、とおもいます。つまり、日本語をもちいてコミュニケーションを図ろうとすることは、相手の使う言葉の背後にあるコンテクストをそっくり理解してしまうか、コンテクストを除き意味として、論理を理解するか、あるいはその両方を同時に行うことが必要になります。

前者への能力が高いと共感性が高い、といわれる一方で、なんとなく喋ってわかり合った気になる、ということになります。後者が行き過ぎると、文字面しか読まない、いわゆる行間が読めない人間とみなされます。

以上から、社会のハイコンテクストを認識しておくことも大事ですが、同時に、言語自体が使用者の背景情報をまとってしまっていることに留意することが必要なのではないかと感じます。

シンパシーとエンパシー

日本人は、「シンパシー(sympathy)」を持つのは得意ですが、「エンパシー(empathy)」を持つのが苦手です。「シンパシー/同情」は、自然に湧き出てくる「かわいそう」という感情です。これに対して、「エンパシー/共感する力」は、異なる他者を理解するための、行為、態度、あるいは想像力です。

シンパシーとエンパシーは多くの人が誤解しがちな言葉なので、何度も復習が必要です。「あなた共感性がないわね」なんていってくるひとはいないでしょうか。実際のところ、その人が自身の考えを押し付けて、相手をラベリングしようとしていることから、一番共感性がないことは明白なわけですが、「わかってほしい」と感じるひとはこういったことをよく口にします。ですから、それは単なる自己愛であって、共感ではない、ということはとても大事なことだと思います。

もう少し言えば、共感というのは技術であり、ある種鍛錬すれば一定程度は身につけることのできるスキルなのではないでしょうか。それは、一度相手の側に立って世界を見渡してみる、ということだからです。

 

この本は、要約のようになっているので、他のオリザさんの本もおすすめです。

 

NHK出版 学びのきほん ともに生きるための演劇

NHK出版 学びのきほん ともに生きるための演劇

  • 作者:平田 オリザ
  • 出版社:NHK出版
  • 発売日: 2022年07月25日

pleetm.hatenablog.com

pleetm.hatenablog.com

くるりのえいが

みました。

変わったようで変わっていなく、変わっていないようで変わっている。

ある角度から見たら一周回って戻ったように感じるかもしれないけれど、違う角度から見たら全然違うところにいる。人間関係というのはまるで螺旋階段のよう。

往年のくるりサウンドのように聞こえ、懐かしく、でも新しく、今しかできないものに出会えた、というみんなの気持ちが感じられる作品です。

現実世界の時間だけは再生速度を変えることはできない。だからやっぱりその時を待つしかなかったんだ、ということへの説得力。

 

 

It looks different from what it was, but it is the same as what it was.  At the same time, it looks the same, but it is different from what it was.  This is because a relationship is like a spiral staircase, which will bring you to a different site that looks the same from a viewpoint.

It sounds nostalgic, but different from the past.  It has made them feel that they've found something they haven't encountered until now.

It is time that is something we can not change the speed of.  This robust fact gives us a convincing explanation about why we have to wait for the timing.

 

打たれ強くなるための読書術


読みました。

「本を読む本」を日本人向けに分かりやすくし、

また、

東郷さんのオリジナルな読み方と他の人の読書論への言及、

さらに

論文作成時などのため文献の整理の仕方など

読書をしっぱなしにせずあとに生かす方法が満載された本です。


カード方式という方法での文献の管理は興味深く、

これは単に整理にとどまらず、

新しいアイデアを生み出す際に異なる組み合わせを目に見える形で行うことができる

画期的な方法だと思いました。

このカードの整理の仕方がやや困難かとおもいますが

外山さんの本に

参考にできるところがあった気がするので

うまく組み合わせればよい方法ができそうです。


他にも

分析読書、批判読書、能動的読書の必要性など

面白い話がたくさんです。

 

打たれ強くなるための読書術

打たれ強くなるための読書術

  • 作者:東郷雄二
  • 出版社:筑摩書房
  • 発売日: 2008年02月05日頃

pleetm.hatenablog.com

 

ハマトンの知的生活

読みました。ハマトンが誰かは知りませんが、何度も訳されている本で人気のある本のようです。

どのような年代の人が読んでも面白いと思える部分はあるように感じます。

考察への執着と無益

自分の考察には別にもっと適当な対象があると自ら判断していながら、それでも放棄できないほど一つの対象に執着してしまうことは無益なこと

どういう文脈かは忘れましたが、このようなことが書いてありました。エネルギーをかける場所を間違えてしまう良い例かと思います。考える対象を間違ってしまうのかもしれませんし、考えると悩むを混同してしまっているかもしれません。考えているか?ということはいつも気にしないといけない点だと思いました。

好き嫌いについて

好き嫌いをどう扱うかは重要な問題です。なぜなら、世の中は好きなことだけでは生きていけないことが多いし、嫌いなことだけでは生きる意欲を失うからです。

嫌いなことにも利点があります。それは意思の訓練になるという点です。例えば勉強のできる人、弁護士など、興味の必ずしも持てない情報を大量に処理することは好き嫌いに打ち克ってこそなせる業です。そして、嫌いなことを克服して、できるようになることで好きになる。という可能性もありえます。

しかし、ここで指摘されているのは好き嫌いを全面的に無視してはならないという点です。自分の内的な法則を社会通念により押し潰してしまってはいけない、と述べられています。

好き嫌いは最初の違和感です。それは克服もできる場合もあるし、自分に馴染むこともある。けれども、自分に馴染んだように見えても、自分が訓練により馴染ませた可能性を忘れてはいけないということです。例えば、他人から臓器を移植したとして、それが何の問題もなく機能しているからといって、それが元から自分のものだとは言い切れないのと同じだと思います。

自分を殺して社会通念に合わせた自分を褒めることも大事です。同時に、殺した自分はやっぱり死んでいない、と認識することも大事だと感じます。つまり、無かったことにはならないので、いつまでもケアを怠ってはいけないし、その違和感に従うことが社会通念に従うよりも大事な場面だってあるはずなのです。

友人

大事な友とは仲良くなりすぎないことを説かれています。1から10まで知り尽くしてしまわないことを大事にするべきとのことです。

また、教わるということは知的な人間の時間を犠牲にしていることであることも記されています。

いずれにしても相手を搾取していないか、ということを大事にしたいと感じます。

選択

選択とは小さな真理と大きな真理の間でどちらかを選び取ること。

常に高度な選択をすることが知的であること、だそうです。

みんな間違っていない、あとは決めの問題だ、みたいなことはよくありますね。

決めの問題、というのは個人的には選択の放棄だと思いますし、こういうことを言う人は小さな真理、つまり手近で自分を守りつつ、責められず、波風を立てず、を選ぶのだと思います。それは先に述べたように、社会通念によって作られた正しさを選び取ったと言い換えることができるかもしれません。

それぞれが小さな真理に閉じ込められていることに気づき、大きな真理を追い求めることが選択である、と言うことなのかもしれません。

 


新版 ハマトンの知的生活 (三笠書房 電子書籍)

ハマトンの知的生活のすすめ エッセンシャル版 ディスカヴァークラシック文庫シリーズ

新版 ハマトンの知的生活

新版 ハマトンの知的生活

  • 作者:P.G.ハマトン/渡部 昇一/下谷 和幸
  • 出版社:三笠書房
  • 発売日: 2022年02月25日頃
 
 
 

君たちはどう生きるか

見ました。

みんな見て楽しい

いろんな解釈ができる作品だと思います。同時にシンプルに面白い宮崎駿ジブリ映画と見てほしい、という作り手の熱意をかんじました。宮崎さんは、ファンタジーを見る主たるお客さんに子どもを想定していると思います。

だけど、宮崎さんが映画を作り始め何十年、今では、大人も楽しめるような、あるいは昔子どもだった人たちが大人になっても見る世の中になってしまった。だから、世の中では解説が欲しかったり、解釈を知りたかったりする傾向が生まれているのだと思います。だけど、作り手としては、それを求めていない、と感じます。

まずは世界観を楽しめるか、という点においてとても親切な設計になっていると思いますし、不思議な世界に誘われていく感じはジブリだな〜と思いました。

とは言っても作り手としては、これが最後になるのかもしれない、という思いもあるのも当然ですし、積み上げた経験や技術を惜しみなく一つの作品に注ぎ込みたいと考えるのも当然です。その意味で、宮崎さんの濃さみたいなものが圧縮されて表現されているとも思います。

現実世界とのリンク

今までの作品と違うなと思ったのは、理想の世界が崩れるという点です。これまでトトロにしても、千と千尋にしてもそのファンタジーの世界はその中でバランスを保ち、完結し、生態系が成り立っていました。つまり、そちらの世界にお邪魔して何か経験して帰ってくるパターンです。

しかし、今回はそのお邪魔する世界が完全ではありませんでした。大叔父さんが作ったもので、いつかほころぶものであることが示されます。大叔父から後を継ぐように言われた眞人も、「自分はこの世界を受け継ぐような人間でない」と悪意や不条理に満ちた、母親のいない現実で生きることを選択します。この眞人の選択によって、物語の中での現実世界(これも一種のフィクションではあるのですが)、と僕たちが生きている現実世界が地続きになる気がします。つまり、現実世界に生きている僕たち鑑賞者にとって、どう生きるのか、という選択を投げかける形になりました。

なぜ、こうなったのかはわかりません。でも、今回映画の中の現実と、僕たちの現実の境目をできるだけなくすことによって、その両者がつながったように感じさせる狙いかもしれませんし、切っては切れないもの、という認識に変わったのかもしれません。

これはシン・エヴァンゲリオンにも通ずるものがあるものを感じますが、詳しくは述べません。

あの世、この世、そしてその世

この世界観の構築については、もう少し記述が必要かもしれません。つまり、これまではあの世とこの世の話だったのだと思います。それで言えば、今回訪れた場所はなんとも言えない場所、つまり完全に彼方でもなく此方でもないその間とも言える場所だったのではないでしょうか。

セルフパロディが楽しい

台詞回しや場面設定など随所にニヤッとできる場面があります。

メタファーとモチーフ

しばしばこの物語の解釈を難しく感じさせたのは、メタファーとモチーフだと思います。というのは登場人物に対して、こいつは誰がモデルになっているのか、という考えさせる時間的余地も大いに残しながら物語が進んでいくからです。また、視聴者もそれを考えてしまい、そうするとよくわからない、と感じたかもしれません。

しかしながら、人間というのは一面だけで成り立っているわけではない、と考えることが自然です。つまり、どこにでも宮崎駿がおり、高畑勲がおり、鈴木敏夫がいるのです。そしてそれが場面場面で入れ替わり、時には自分と話しているように感じたかもしれません。その自然で複雑な性格の移り変わりこそが人間なのだと思わされますし、本作が他と異にしている点だとおもいます。これまでのジブリ作品はこの点をある種単純化して見せていたからこそ、わかりやすかったし親しみやすかった。だけど今回はあえてそれをしなかったのかもしれません。

また、メタファーについても複雑です。それが暗に何を意味しているのか、をわかりやすく示していません。複雑というのはもう少し性格に言えば多層的、多面的になっているということです。その解釈自体も場面場面で納得できそうなものはありますが、それが作品を通して一気通貫はせず、行き来するような構造になっています。ですので、作者としてのメタファーを読み取りつつ、今見ている映像からうけとることのできるメタファーを読み取りそれらを相互に往来し繋ぎながら見ることで、面白く見ることができると思います。

メッセージ=タイトル「君はどう生きるか」

もののけ姫だったら「生きろ」とか、メッセージ性のある言葉が視聴者を惹きつけ宣伝してきました。今回、そういった宣伝はなされませんでした。とはいえ、それも必然だと、見た後には感じます。つまり、タイトル=メッセージなので、それ以上要約した言葉を考える必要がないのです。その意味ではシンプルを突き詰めた作品ということもできるのではないでしょうか。


www.youtube.com


www.youtube.com


スタジオジブリ絵コンテ全集23 君たちはどう生きるか (スタジオジブリ絵コンテ全集 23)

pleetm.hatenablog.com

 

天才の世界

ノーベル賞学者湯川秀樹が天才について語る本です。

一般的に天才といわれる人が
天才を語るというところから少し変わってると思って買いましたが
かなり面白かったです。

語るのに選ばれた天才は

弘法大師
石川啄木
ゴーゴリ
ニュートン

の4人。

読んでいくとみんなかなり違っている。

それは精神的な面であったり、

生い立ちであったり、

長生きのタイプかそうでないか、などなど。


でもどの人にも

その違った背景の中に

共通しているところもあるきがしました。


共通しているものとして何となく記憶に残っているものをいくつか。

執着心。
敏感さ。
精神的ヴァイタリティ。

この三つはまず重要でないかと思われました。


どの人も決して自分の道をあきらめていないことが分かりました。


狂人的なまでの敏感さ。

ちがう言葉で言えば人の非難をかなり気にする、ということ。

またそれゆえに、誰も気づかないところに気がつき

それが天才を天才たらしめている気もしました。

 

ほかに、啄木の章から

記憶に残ったものを一つ。

「技巧を習いこむことによってその果てに
 無技巧と思える境地に至る」

この言葉はなんかすごいと思いました。

ほかにも面白い話ばかりです。
天才を通して天才を知ることができる本です


天才の世界 (知恵の森文庫 t ゆ 1-1)